2008年01月12日

身体の可能性

 珍しいキノコ舞踏団・伊藤千枝さんのダンスワークショップに行ってきました。

 滋賀会館にて、映画『めがね』公開記念の催しとして行われたものです。
 伊藤千枝さんが映画の中に出てくる「メルシー体操」の振り付けをやっていることからの企画。

 私が伊藤千枝さんのダンスワークショップに参加するのは2回目のことで。
 1回目に参加したとき、知人に感想を聞かれ
「面白かったけれど、もう一度参加することはないと思う」
 と答えました。

 しかしながら、もう一度参加することになりました。
 そうして結論から言うと、参加してみたのはとてもよかったです。

 以前参加したときは、他の参加者さんの殆どが身体操法をある程度身に付けている方だったとみえて、皆さんとても上手に動いておられました。
 私はその中でもたもたと周りの方の邪魔をしてしまうことになりました。
 それがどうしても申し訳なく、自分はこういうことに向いていないのだと思いました。
 だから、動くことは楽しかったしよい経験にはなったけれど、同種の催しにはもう参加することはあるまいと考えました。

 だけれど今回は「体操」です。
 体操ならば周りの方に迷惑を掛けることなく、単独で黙々と練習に励めそうな気がして、参加を決めました。

 決めたのですが。
 始まってみると、今回のワークショップは「メルシー体操」をやってみようというものでは全くなく、以前参加したワークショップのプログラムを2時間という時間の中に構成しなおしたもので。

 その説明を伺ったときには焦りました。
 また上手にできなかったらどうしよう、周りに迷惑をかけてしまったらどうしよう。

 不安は杞憂に終わりました。
 もちろん私がものすごく上達していたわけではありません。
 今回の参加者さんは「ほどほどに動ける」というくらいの方が多くて、私がずばぬけて駄目という事態にならなかったことがよかったのかもしれません。
 一度体験したことのあるプログラムで、ある程度ついていけたことが幸いしたのかもしれません。
 大ホールのロビーという変わった場所で身体を動かすという体験が、変わった効果を生んだのかもしれません。

 とにかくなぜだか今回は、周りよりも自分の身体のほうに意識を置くことができました。
 正しい動きを追求して失敗に怯えるのでなく、身体を揺らしながら楽な方向に持っていくことができました。
 それはとても楽しいことでした。

 先回に引き続き、私にはダンスの才能がないとも思いました。
 ひとの視線がおそろしく、自分の身体で何かを表現したいと思えません。
 自由に動いて、と言われても、他の方と比べて単調で、面白みのない動きしか取れません。

 でも、それならそれでいいか、と思いました。
 ひとが観て美しい、楽しい動きというのはさておいて、自分が気持ちよいと感じられる身体の扱い方を追求してみたくなりました。
 身体をほぐし、揺すり、意識を内側に向けて自分が動きたがっている方向を探して。
 ワークショップの中で普段の生活ではまずしないような動きをいくつもしてみて、自分の身体には思いのほかたくさん動きの可能性があるのだと気付きました。

 伊藤千枝さんのお話のなかに、「身体がよろこぶ動き」という言葉がありました。
 そういう動きをもっと探してみたくなりました。

 次があったら、また参加してみるのもいいかと思っています。
 ワークショップの機会がなかったとしても、身体を緩めたりよい動きを探してみたりということは日常的にやってみようと思います。

 そういう楽しみを見つけられたことは、きっととても幸せなことです。
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旅の空気

 春になったら海に行こうと思いました。

 映画『めがね』(荻上直子監督)を見てきました。
 映画館で映画を観るのは久しぶりのことです。

 きれいな海辺が頻繁に出てきました。
 大きなスクリーンに映る白い砂浜が眩しくて、目を細めました。
 海に吹く風が頬に当たったような気がして、思わず手で頬を撫でました。

 あの感覚は、空気は、なんと表現すればよいのでしょう。
 劇場の中に旅がひとつ入っていました。

 『かもめ食堂』とほぼ同じキャストとスタッフということで、相変わらず背景の描かれないひとたちがふらりとやってきて、おいしいものを食べて、気持ちのよい場所にいる、そういうおはなしでした。
 物語の後半で旅の終わりが示唆されたとき、それは当たり前のことですのに、なぜかひどく動揺しました。
 眺めているのが心地よい時間で、終わってしまうのが寂しくて。

 どこにでも行かれるし、そこから帰ってくることができるし、そこから帰ってこないこともできるのだと思いました。

 そうして、海に行こうと思いました。
 できれば徒歩か自転車で、無理なら電車や車に乗って。
 ひとりで出かけることもできますし、あなたがそうしたいのなら一緒に来てくださっても構いません。

 どこかに行こうと思いました。
 この部屋は充分に暖かく居心地はよく、出て行く理由は何もありません。
 だからこそ。

 春になったら海に行くことにしました。
 泳ぐためでなく、誰かに会うためでなく。

 海に行くことにしました。
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2006年11月18日

化け物の展示法

 上野は国立科学博物館で開催されていた、「化け物の文化誌展」に行ってきました。

 淡々と標本が並んでいる印象で、正直物足りなく感じてしまいました。
 色々と珍しい、興味深い展示物はあるのです。
 これだけのものが一同に会することはそうそうないと思うのです。
 ですが、なんだか。

 見て回るうち、Webのニュースで気になっていた「人魚のミイラや天狗のミイラのCTスキャンや科学的な分析」というのが一向に見当たらないことに気付きました。
 おかしいなあ、と思い会場の方に問い合わせ。
「あの、人魚のミイラを科学的に分析したものが展示してあると伺ったのですが」
「分析はしましたが、展示はしていません」
「え?」
「分析結果はリーフレットにして会場で配布していたのですが、持っていかれる方があまりに多く、既にほとんど残っていません」
「ええ!?」
「ですがまだ残部はございますので、ご希望でしたらお渡しします」

 リーフレットをいただきました。
 見てみるとなるほど、ここにある人魚や天狗が何なのかが詳細に記されています。いやあ面白い。まったく面白い。

 怒りさえ覚えました。

 なぜこれを展示しませんか国立科学博物館!
 これが、これこそが、「ここでしかできない展示」であったはずですのに!
 なぜこんなに面白いものをリーフレットの中にのみ留めてしまうのですか!

 そう、会場にあったものは大変興味深いものばかりでしたのに、説明のスタンスが中途半端に過ぎるという印象を受けたのです。
 私の好みとしては、人魚のミイラには「どこにあって、どのような故事来歴をもち、どのような用途に、あるいは信仰の対象に用いられてきたか」という説明がついていて欲しかったのです。いっそ小さな京極夏彦とか小さな荒俣宏とかを配布して、各々の標本の前で長々と薀蓄を述べてもらう機能をもたせてほしかったくらいなのです。

 しかし国立科学博物館でこの展示をやるからには、伝承云々とはまた違った切り口での展示になるだろうと予測もしていました。
 CT分析の結果と見比べるとか、伝説の由来となった可能性のある動物の標本と妖怪の絵草子を並べるとか、そういう説明になるのかなあと。
 それはそれで面白そうだと思ったのです。
 それはそれで見てみたいと思ったのです。

 科学がそういう形で化け物を愛するのなら、私はそれを許容できたと思うのです。

 だけれど会場にあったのは、博物館の性質を明確にするでなく展示の趣旨を主張するでなく、とりあえず並べてみたという感じの展示物だけ。
 あちこちに行かないと見られない、珍しいものばかりではあります。
 だけれど「ここでしか見られない」展示であったかというと。

 残念でなりません。
 国立科学博物館がこれだけの資料を展示するからには、「科学博物館」という立場でしかできない、もっと面白いものがいとも容易につくれた筈ですのに。
 それが自分の分野と違うものであったとしても、私はそれを見てみたいと思っていましたのに。

 ここで珍しいもののいくつかを見て、興味を抱いていろいろ調べてみる子は出てくるでしょう。
 そういう可能性を拓くことに期待をして、あえて多くの説明を添えずにおいた、ということなのかもしれません。
 しかしそうであったとしても、やはり中途半端の感は拭えませんでした。
 こだわりが、あるいは愛が不足している感じ。

 一方で。
 その日に回った東京大学総合研究博物館の特別展示、「写真家上田義彦のマニエリスム博物誌」は素晴らしいものでした。
 数々の標本をモノとして撮影し、アートとして展示するというもの。
 隣の部屋に淡々と並べられていた標本たちが、科学としての情報量を著しく減少させながら、同時に画像としての魅力や意味を過剰に付加されて平面に焼き付けられている、その不思議さ。
 空間のつくりまでが整っていて、とてもとても居心地がよくて。

 博物館の展示としては、写真にすることで標本の持つ意味をあえて削ぎ落としてしまう、馬鹿げた企画だともいえるのかもしれません。
 だけれどあそこには膨大ななにかがありました。
 それはあそこでしかできない、あの部屋でしか見られないものでした。
 そういうものを見ることが出来た幸運を、心から喜びました。

 なにかしら過剰なくらいのものがあるほうがよいのだと思いました。
 その場所でしかできないこと。
 そのひとたちにしかできないこと。

 そういうものがないのなら、図録を見るだけでよいのです。
 そこにしかないものがあるからこそ、その場所に足を運ぼうと思うのです。

 そうしたくなるような展示が、もっと増えればいいと思うのです。
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2006年11月06日

移動への異議

 自転車で走るにはよい気候になりました。

 休日、ちょっと遠出をしてみようかと思い、地図を広げて検討。
 通りかかった父に相談。

「自転車でこのあたりまで行ってみようと思うのですが」
「馬鹿な、遠くに過ぎるよ」
「そうですか?距離的には然程でも」
「よく見てみなさい、間に山が2つもあるでしょう」
「ううん、ではこの辺りに留めておきましょうか」
「それでも山をひとつ越えなければならないことに変わりはない、やめなさい」
「はい」

 父を徒に心配させてはなるまいと考え、素直に返事をして自室へ。
 それではどの辺りに行こうかと思案しながら身支度をしていると、父がやってきました。
「行くのなら、同行するに吝かではないが」
「……はい」

 監視がつきました。

 そういうわけで、父と一緒に自転車で散歩をすることに。
 まあそれはそれで、自分の知らぬ抜け道などを教えてもらうこともでき、途中でお菓子を買っていただくなどもし、楽しい時間を過ごすことができました。
 よい休日であったと、思います。

 翌日、こっそりひとりで山を2つ越えてのサイクリングを敢行してきたのは秘密です。
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2006年10月09日

化け物の文化誌展

 東京・上野の国立科学博物館で、「化け物の文化誌展」が開かれます。

 会期は2006年10月17日(火)〜11月12日(日)、月曜日休館。
 公式サイトはこちら
 「天狗のミイラ」や「人魚のミイラ」、「人魚の肉」といった遺物に加え、各種絵巻や図鑑などの資料が展示されるようです。
 こちらの記事によりますと、天狗や人魚のミイラをエックス線で分析し、エックス線撮影の写真も展示する予定だとのこと。
 生物学という切り口から、これらの「化け物」を分析するという趣旨なのでしょう。面白い観点だと思います。

 しかし、このような企画がよくも実現したものです。
 以前某寺へ妖怪に纏わる遺物を見学に行ったことがあるのですが、そこにあっては、それらは今でもれっきとした信仰の対象として崇められていました。
 その場所にあっては、それがほんとうに不思議な生き物の痕跡なのか、それともつくりものであるのかなんて、そんな疑問を持つこと自体がとても失礼なことのように思われたのです。

 それに実の所、それが何であってもよかったのです。
 私が知りたいのは、あくまでこの世にあるひとのありかたでしたから。
 なぜこの世ならぬものが必要とされたのか、それはどのように扱われ、どのような物語を付与されて、いかにして信仰の対象となりえたのか。
 そういうことこそが大切で、ほんとうに不思議な生き物が生息していたかどうかを知ることは別段重要な事柄ではありませんでした。
 対象となる遺物がひとの手による作成物であっても分析不能な謎の物体であっても、別に構わなかったのです。
 その存在を信じ、畏れ、崇めたひとがいたのなら、それらは立派に「化け物」として機能したのですから。

 今回は曹源寺の「河童の手」も公開されるとのこと。
 よくお寺が貸し出しに応じたものだと思います。主催の「生き物文化誌学会」には皇族も参加しているとかそういう効果がものを言ったのでしょうか、それともこういった展示に出すことは別段信仰の妨げにはならないと判断したのでしょうか。
 いずれにせよ、勇気のある判断だと思います。

 とても興味を惹かれる展示なのですが、行こうかどうしようか迷っています。
 ここには私が見たいと思っていたいくつかのものが確実にあります。
 だけれど、私が知りたいと思っていることたちはここの展示にはないように思うのです。
 あれこれと調べまわって各種機関に問い合わせを入れ、約束を取り付けて遠くに出向き、お寺で物々しく拝謁を許されてはじめて見ることのできる欠片。
 その場所に行き、そこのひとにおはなしを伺ってはじめて、「化け物」はその形を成すもののように思えるのです。
 それをせずに遺物だけを目の前にして分析結果を示されても、それはただの「もの」に過ぎません。
 生物学とは、科学とは、もとよりそういうものなのかもしれませんが。

 とはいえ私は元々引き篭もり志向のひとみしり、あまり活動的に各地のお寺に出向いて知らぬひとのお話を聞くのは得意ではありません。
 探索の仲介を任せられる先輩もいなくなってしまった今、気軽に手軽にこれらの遺物を目にすることが出来るこの展覧会はまたとない機会。
 見られるものはどのようなものであれ、目にしておいたほうがよいのかもしれません。

 だけれどそれでも、かつて信仰の対象であったものが、ケースの中でどのように扱われているかを見るのがすこし怖いのです。
 鑑賞するひとはどのような態度でこれらの展示を見るのでしょう?
 学術的な興味を持ってでしょうか、それとも未知なるものへの好奇心でしょうか?
 科学的に分析してしまえば様々な分子の集まりでしかない遺物に対し、そこにあった物語を読み取り敬意を払ってくださる方はいるのでしょうか?
「なあんだ、作り物か」と揶揄されたり、徒に気味悪がられたりはしないでしょうか?
 もしそのような場面に出くわしてしまったら、ひどくいたたまれない気持ちになると思うのです。

 そんな些細な感傷のために観覧を躊躇してしまう私は、きっと「化け物」に愛着を抱き過ぎているのでしょう。
 それは滑稽な様子でしょうが、大切に思えるものがあるのはきっとよいことです。

 その対象がこの世ならぬ「化け物」であったとしても。
posted by にくす at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月03日

図像の暗喩

 突然ですが、知人を増やしたいと思いました。

 ひとみしりの自分がこのように思うのは割合無茶なことなのですが、そうする必要性を感じたのです。
 精一杯社交的に振舞って、可能な限り色々な方のおはなしを聞いてみたいと思ったのです。

 なぜそのような思考に至ったかといいますと。

 週末、プラド美術館展に行ってきたのです。
 さすがにいずれ劣らぬ名品揃い、大変興味深く観覧することができました。
 心残りは予習の不足。

 ただ綺麗なだけでなく、意味を持つ図像を随所に組み込んでなにがしかの教訓、あるいは物語を表現している絵画が沢山見受けられました。
 で、鑑賞中作品の中にいくつかの気になる要素を見出しながらも、不勉強ゆえにそれがいったい何の象徴なのかを読み解くことができず、はがゆい思いをすることがしばしばで。

 例えば「アッシジの聖フランチェスコの幻視」(リベーラ=ジュゼッペ・デ)で、机の上に置いてある髑髏。
 この絵は註釈によれば「聖フランチェスコが天使から澄んだ水を示され「司祭になるには、この水のように純粋でなければならない」と諭されて、司祭になるのを諦めた」という場面を示した図らしいのです。
 では、そこに置かれた髑髏は一体何を意味しているのでしょう。
 「死を忘れるな」という教訓なのでしょうか、聖フランチェスコの手にある聖痕と併せてキリストの死と復活を暗示しているのでしょうか。はて。

 あるいは、「フェリペ3世の教育の寓意」(ティール=ユストゥス)に示された数々の要素。
 後ろにいるのはゼウスのように見えます。目隠しをした天使はエロス(アモル)でしょうか、だとすれば隣にいる女性はアプロディテ?
 あれこれの小道具も気になります。蛇が二匹巻きついた杖は、カドゥケウスの杖でしょう。確か富の象徴、天秤は公正の象徴。
 では、フェリペ3世が手元に差し出されたそれらに目を向けていないのはどういう意味なのでしょう?
 何故エロスは画面外に逃げ出そうとしていて、後ろの大人ふたりは困った顔をしているのでしょう?
 そこに何かしらの含意は汲み取れるのですが、いかんせん基礎知識が不足しているために、何か途方もない読み違いをしているような気がしてなりません。ともかくフェリペ3世はあまり出来の良い子供ではなさそうだ、ということはひしひしと伝わってくるのですが。

 典拠となっている物語を知らず歴史背景を知らず、それぞれの要素が象徴するものごとも理解しておらず、ましてそれらが時代の中でどのように移り変わっていったかの知識もないという悲惨な状況。
 当然、絵画が持つ物語を正確に読み解くことなど叶う筈もなく。
 それは大層もどかしいことでした。

 美しい絵画が目の前でなにかしらの物語を語りかけているのに、それを理解することができないなんて。
 これほど残念なことはありません。

 もっと知識を蓄えたいと、切実に願いました。
 だけれど今回の展示を観て思っただけでも、あればよかったと思う知識は図像学、宗教学、各種神話に各国の歴史に美術史と枚挙にいとまがなく、それに引き換え人生はあまりに短く。

 どうやっても己は全知の存在たり得ないのだという事実が、ひどく残酷に思えることがあります。

 もしあなたが図像学に、あるいは宗教学に、もしくは歴史に美術史に、とにかく何かに詳しいなら。
 一度おはなしを聞かせていただきたいのです。
 きっとあなたは何かしら、私の知らないことをご存知のはずですから。

 ひとりで全てを識ることはできないから。
 他者に、あなたの知識に縋るより他に、自分の情報収集の限界を超える術はないのですから。
 どうか教えて欲しいのです。

 あなたが所持するおはなしは、いったいどのようなものですか?
posted by にくす at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月22日

夏休みの行き先

 夏期休暇を利用して、10日ほど旅行に出ていました。
 今朝自宅に戻った所です。

 いろいろな所に行って、いろいろなものを見て触れて感じて、とかく盛り沢山な旅行でした。
 今すぐに全ての思い出を書き記すのは困難なので、行き先のみでも書き留めておきたいと思います。

 岐阜県大垣市。養老天命反転地。ソーラーアーク。ロックシティ大垣ショッピングセンター。
 東京都。銀座。ポーラミュージアムアネックス。三軒茶屋。高田馬場。つけめん。ICC。六本木。小さなギャラリー。六本木ヒルズ。恵比寿ガーデンプレイス。
 新潟。越後妻有トリエンナーレ。へぎそば。とうもろこしのムースケーキ。おにぎり。日本酒。アボカ丼。露天風呂。
 また東京都。竹橋。東京国立近代美術館。深川。深川丼。深川江戸資料館。秋葉原。中野。中野ブロードウェイ。
 番外・雛見沢村。

 いろいろな所に行ってきました。
 そうして、ここに帰ってきました。

 気付けば私は昔に比べ、随分遠くまで行けるようになりました。
posted by にくす at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月21日

祇園のお祭り

 先週末、京都の祇園祭に行ってきました。

 お祭りの期間中、市内では沢山の山鉾を見ることができます。
 全てを見て回るのは難しいので、同行の方と案内のちらしを見ながらどれを見に行くか相談。

「特に見ておきたい山鉾はありますか?」
「この『木賊山』というのが気になります」
「ええと、『世阿弥の謡曲「木賊」から着想され、我が子を人にさらわれて信濃国の伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわす』」
「『木賊』とは?」
「はて。山賊とか、海賊とか、そういったものの一種でしょうか」
「それを翁が刈るのでしょうか」
「狩るのでしょうね」
「随分強い翁ですね」
「こわいですね」
「見に行きますか」
「そうしましょう」

 そういうことになりました。

 で、見に行ってはみたものの、期待していたような恐ろしい翁の姿はどこにもありません。
 山の近くに立てられた看板の説明文を読んでみました。
謡曲「木賊」をもとにした山。世阿弥の作で、都の僧に伴われて故郷の信濃国に下った松若が、子どもを人にさらわれ、山里で一人木賊を刈る老翁に出会うという筋。
 ご神体の翁は腰ミノをつけ、右手に鎌、左手に木賊の束を握っており、欄縁の上部にも御神体を囲むように木賊が配されている。周囲に生えた木賊は作り物だが、ご神体の持つものは実物を使う。
 束を握ったり実物を用いたり、予想以上に凶悪な山です。 
 しかし、別に怖い方々が翁に握られているような様子はありません。
 というか「木賊=人間」ならば、実物を使うのは無理だと思います。

 どうやら、「木賊」というのは盗賊の類ではないようです。文脈から察するに、おそらくは植物の名前か何かなのでしょう。
 そういえば烏賊だって別に凶徒を指す言葉ではありません。むしろ美味しい。

 考えてみればひとを鎌で狩る血まみれの翁というのは、街中に展示するには不適切な気もします。植物を刈る翁のほうが、平和でよいのでしょう。
 しかしながら私は不逞の輩を鎌で薙ぎ払う猟奇的な翁が見たかったので、すこし残念に思いました。
 同行の方は私より更に残念がっていらっしゃいました。
 あんなに残念そうなひとを見たのは久しぶりのことでした。

 でもお祭りは楽しかったです。

参考:木賊(とくさ)とは
posted by にくす at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月29日

達人の談話

 登山用品店に行ってきました。

 老舗らしい、ちいさなお店です。店内にはなにやら本格的な道具が沢山。
 門外漢には何に使うのやらわからない道具も多く、物珍しげにあれこれ眺めていたところ、店主さんに遭遇。
 あれこれと、山に関するお話を聞かせていただきました。

 登山経験が大変に豊富な方で、「富士山では」とか「エベレストでは」とかそういう凄そうな山のお名前が次々と出てくるのに、ただただ感心。
 遠足程度の登山しかやっていない身にはもう何が凄いのかよくわからない世界のお話なのですが、それでも「200名を連れて登山」というのは凄いことなのではないかな、と思いました。
 大きな山ですと当然危険も大きいらしく、遭難に関するお話も色々。
 救助や遺体捜索に行かれたお話を聞くにつれ、なにかいたたまれない気持ちになりました。

 しかし、そこまでしてでも登る方がいるのです。登山というのは余程楽しいものなのかもしれません。
 運動は苦手で体力もない私ですが、鍛錬すればなんとかなるでしょうか。
 登山をする方というのは、どのような鍛え方をしておられるのでしょう。

 店主さんが見た若い娘さんの練習風景。
「朝御飯を食べて、腹ごなしに1000Mくらい登って、けろりとした顔で降りてくる」

 諦めました。

 ちなみに、店主さんもなかなかの体力の持ち主であるようで。
 面白いあまり、ついつい長話になってしまって――確実に一時間以上はお話していました――途中で私は立ち話に疲れてしまい、失礼とは思いつつ椅子に掛けさせていただいたのですが、店主さんは平気でずっと立ちっぱなし。そして話しっぱなし。
 小柄な方ですのに、私よりかなり年上ですのに、いったいどこにそんな体力があるのでしょうか。
 驚くことばかりの訪問でした。

 あと、登山とは関係のない分野で心に残った表現。
 登山に関する思い出話の中で
「まだ40代の若い娘さんが」
 というひとことがありました。

 店主さんは現在、御年82歳とのことです。
 そのくらいの年齢の方からしてみれば、40代の女性は確かに「若い娘さん」にしか見えないのでしょう。
 しかしながらその年齢にも関わらず私などより余程お元気で、今でも現役で山に登っており、時には救助活動等にも協力しておられるご様子。

 登山の達人にはなれそうもありませんが、ああいう大人になりたいものだと思いました。
posted by にくす at 17:48| Comment(2) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月08日

忘却の機械

 こんな展覧会に行ってきました。

 スコット=ド・ワシュレー来日展―いつからハゲなんだろう―

スコット=ド・ワシュレー氏は、初の個展となる今回の展覧会を、自分のものとして認識できません。氏は、25歳で交通事故に遭って以来、頭部の外傷がもとで脳に障害を負い、記憶が一日以上持続しなくなったからです

今回の展覧会において「作品」とよばれるものは、氏自らの記憶障害を補完するためにあくまで個人的な営みの一環として生み出された装置にすぎません。自らの記憶を翌日まで留めるため、彼は元エンジニアとしての技術力を生かし多くの装置を開発してきました。つまり、彼の装置はあくまで自身の個人的事情によるものであり、他者に見せることを前提としてはいないものです。また、彼自身の記憶が一日しかもたないことにより、それらの装置は彼のさまざまの努力にも関わらず作り出されるのとほぼ同時に━━次の日には━━忘れられてしまいます。いわば「無用の」機械であり、完成しないまま一日たてば放置される運命にあるそれらの装置は、日毎の記録とともに氏の実姉が保管にあたっています。氏の生み出す装置は、彼に固有の特殊な状況のもとで制作されたものでありながら奇妙なユーモアを湛えており、われわれ誰にとっても自然である「忘却」という現象を改めて思い起こさせる点において興味深いものです。

 という物語を踏まえたうえで、会場にはあれこれと奇妙な機械が並び、ワシュレー氏の制作風景を追ったドキュメンタリー映像が上映されているという展覧会です。

 記憶障害を補うために作られ次の日には忘れられ、意味を為さなくなってしまう装置たち、というのは非常に魅力的な存在でした。
 もし記憶を保持できなくなったら、どういう形で私は自分が自分であることを記録するのでしょう。
 エンジニアでもなく、特殊な機械を作ることもできない私は、どうやって昨日と今日を繋ぎ、明日を生き延びていくのでしょう。

 25年分の記憶はあるのに、そのあとの記憶を一日以上保持できないというワシュレー氏。
 彼の主観は常に25年前の一日後にあり、昨日を思い出せず明日にも進めず、無用の機械を作りながらひたすらに今日を過ごしていく。
 そういうひとの展覧会です。
 そういうことになっています。

 既に会期は終了ということで、野暮とは思えど補足の記述を。
 おそらく「記憶を保持できないエンジニア」というのは架空の物語です。
 この展示はその物語も含めて、ひとつの作品となっています。
 企画者は東京大学の学生チーム、フィボナッチ金魚。

 だけれど私ははじめ、ほんとうにそういうひとがいるのだと思って観覧に行きました。

 で、行って展示を見て、作者に関する説明が妙に少ないことが気にかかったのです。
 どこの国のひとなのかもよくわからず、あらためて説明書きを読み返します。ワシュレーというのはどこの名前なのでしょう。
 スコット=ド・ワシュレー。
 ド・ワシュレー。
 度忘れ。

 ああ、そういうことなのか、と。

 つまりこれはそういう物語で、語呂合わせはそれを示唆する要素なのでしょう。
 そう考えれば、記憶を留めるために作られたにしてはあまりにも回りくどすぎる機械(その日にあった出来事をメモするのではなく、わざわざ特殊なトースターでパンに焼き付けるなんてこと、一体誰がやろうと思うでしょう)ですとか、不自然なまでの略歴の空白ですとか、重要な情報である筈の障害の部位・内容に関する説明が一切ないことですとか、そういう諸々に感じた違和感にも納得がいきます。

 とはいえ確証はありません。

 帰り際受付のひとに聞いてみようかと思ったのですが、こういった企画で
「これはこういう架空の人物を扱った展示なのですか?」
 と確認するのは、いかにも無粋なことのように思われました。
 受付の前でしばし固まったあげく、咄嗟に口を付いた質問は。

「あの、この方はこの会場にも来られるんですか?」

 そう聞くと、ふたりおられた受付の方々はすこし顔を見合わせ思案げな素振りを見せた後、片方の女性からこのような返答が。

「ええと、もう帰国されました」

 ……ううん。
 なにかもっと思わせぶりな返事が返ってくるかと思ったのですが、普通の答えでした。質問のしかたがまずかったかもしれません。
 とはいえ気の利いた問いを思いつくことができなかったので、なんとなくそのまま会場を辞した次第です。

 何が虚構で何がほんとうなのかは、どこにも明記されていませんでした。
 ですので私が見てきたのが一体なんであったのか、それは未だによくわからないままです。

 それで別に問題はありません。
 私はスコット=ド・ワシュレー氏の物語を気に入りました。
 ならばそれ以上に必要な情報など、なにもないように思います。

 帰宅後、医師である父に聞いてみました。
「脳の損傷によって、このような――記憶が一日しか保持できないというような――機能の障害が発生するということはありえますか?」
 返事は以下のようなものでした。
「生物の身体においては、個体差、損傷の度合い、その他あらゆる要素が絡み合い、予想だにしないことが常に起こりうる。だから『医学的にありえない』という現象など、ひとつもない」

 スコット=ド・ワシュレー氏は実在しないかもしれませんが、実在しうる存在のようです。
 そうして、私やあなたがこうした障害を抱える可能性というのも、やはり零ではないようなのです。

 ここまで極端でなくとも、ひとは常に忘却しながら生きています。
 私もなんだか随分と、たくさんのことを忘れてしまいました。

 それらはもしかしたらとても大切なことであったのかもしれないのですが、もはやそれが何であったのか思い出すことができません。
posted by にくす at 17:37| Comment(2) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

夜行バスの乗り方

 自分用メモ。

 先日、夜行バスに乗っての移動を体験しました。
 4列シート、お手洗いなし。決して充実した設備ではありませんが、かかる費用は新幹線に比べて半額程度。
 利用してみて思ったことを、いくつか控えておきます。

・トランクに預ける鞄は丈夫なものを
 トランクに大きな荷物を預けることができます。あらかじめ、車内持込の鞄と分けておくのがいいでしょう。
 預けた鞄は割合ぞんざいに扱われるので、壊れ物や貴重品は入れないほうが安心。万全を期すなら、鍵付きのスーツケース。衣類をものとものの間に挟んで、衝撃に耐える荷造りを。

・持ち込む鞄はふたの閉められるものを
 うっかり口の開いた鞄を持ち込んでしまい、寝ている間に中身が零れ出さないかひやひやしました。
 口を閉められるものにしておいたほうが、管理が楽です。

・持ちこむと便利なもの
 出発、到着時間の報告用に携帯電話。本の類は読むと酔うので、開く機会がありませんでした。
 車内の乾燥が気になりました。格安バスですと飲み物のサービスがありませんので、ペットボトルは必須。お茶かお水。喉が荒れているときはマスク。アトマイザーに化粧水を入れておくと、肌の乾燥対策に使えます。
 あるとリラックスできるのが甘いもの。飴やお蜜柑。ただし、匂いの強い食べ物は禁忌。
 体調に応じて酔い止め。
 ひざ掛けがついていないバスに乗るときはひざ掛け。長めのコートがあれば不用。
 熟睡のためには睡眠導入剤とウォッカの小壜。普段は使わない強引な方法ですが、短時間で深い眠りを得るには有効でした。寝過ごすといけないので、できるだけ短時間作用型の、あとを引かないお薬にしておいたほうがいいかもしれません。
 便利とは少し違いますが、貴重品は手元に置いたほうが良さそうです。

・服装に関する諸々
 今回はスカート着用。
 寝にくいかな、失敗だったかな、と思っていたのですが、脚が楽だという利点がありました。丈が長めのもののほうが、姿勢に融通が利きます。
 パンツルックなら、柔らかい素材のものの方が寝やすそうな気がします。
 しわになりにくい・なっても困らない素材の服を選ぶのが肝要。
 便利なのが長めのコート。お布団代わりにくるまって眠ることができます。
 帰りのバスはひざ掛けがついていなかったので、重宝しました。

・狭い空間での睡眠
 後ろの席の方に気を使うと、なかなかシートを全部倒すことはできません。加えてトイレ休憩が2、3時間おきにあるので、お世辞にも眠るのに適した環境ではありません。
 今回は前述の通り、お薬とお酒を使うことで熟睡することができました。帰りは特によく眠れたようで、乗って寝て起きたら到着という簡単さ。
 裸足になって丸まり、脚の位置を高めに設定することでそこそこ眠りやすい体勢を取ることに成功できたような。

 とにかく熟睡できたことが大きく、予想していたよりもかなり快適な移動をすることができました。
 隣の席には同性が座るようにバス会社が設定してくださるのもありがたかったです。
 寝ている間に移動をすれば、朝から夜まで時間を使うことができますし。休暇をあまり取らずとも、それなりに充実した旅行を楽しめるのはありがたいです。
 時間面と経費面を考えるに、比較的手軽に使える移動手段だといえるのではないでしょうか。

 基本的に行動範囲は狭いほうなのですが、この経験を機にすこし遠出することも覚えようかな、と思いました。
 行きたい場所があるのは、見たいものや会いたいひとがいるのは、きっといいことです。
 かつて私にそういうものは何もなかったけれど、今は違うのですから。

 現在、特にどこかに行く必要に駆られているわけではありません。
 必要なものはすべてここにあります。
 今いる場所は居心地がよく、なんの不足も不自由もなく。

 だからこそ、ここではない場所に行ってみたいと思えるのです。
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2006年02月20日

善意の連鎖、あるいは不審者の

 なくしものシリーズ第三弾。

 先日携帯電話をなくしたときに、あわせて簪の飾りを落としてしまいました。
 がらくた市で仕入れたもので、東南アジアかどこかの輸入品と思しき製品。ざらりとした手触りの木に海老茶の塗料が施してあり、末端には黄銅色をした金属の飾りが接着剤でつけられている、どちらかといえばちゃちな細工の品でした。
 しかしその金属の飾りは気に入っていたのです。
 5ミリほどの大きさで、4つ足をつく猫のような生き物を象った小さな部品。よくよく見れば猫は単眼で、ルドンの絵のように顔全体に大きく眼が彫りこまれています。
 異形でありながらどこか愛らしい姿。
 大雑把な造作の中でそこだけが妙に細かく作りこまれており、その奇妙な容姿にもかかわらず大きさの故に殆ど誰かの目に留まることもありません。
 そんな歪さがなんとも好ましいものに思えていたのです。

 しかし接着剤が剥がれ、その金具だけが落ちて行方不明になってしまいました。
 そういえばあの日の夜、ベンチに座る際に少しよろけて、何かちゃりんという金属音がしたのを覚えています。何か落としたかなと思い足元を確認したのですが、暗さの故に良く見えず。何を落としたのかもわからないので、そのままにして帰ったのでした。
 で、後日そこで携帯電話を拾ったという届けを戴いたのです。
 おそらくあの金具をなくしたのも、同じ場所だろうと推察しました。

 そこで同じ場所を通りかかった際、一応落ちていないか確認することにしました。
 小さな部品です、もしかしたらごみとして回収されることも誰かに拾われることもなく、まだそこにあるかもしれません。
 地面がよく見えるよう前屈みになって、ベンチの周辺をうろうろと歩きました。

 さて。
 ベンチには待ち合わせ中と思しき若い男性が座っていました。
 その周りを前屈みでぐるぐると歩き回り、時折ベンチの下、つまり彼の足元を見つめる私。
 どこをどう見ても不審者です。

 視線を感じて、慌てて言い訳をしました。
「あ、ちょっと落し物を探しているところで……すみません、気にしないでください」
「はあ」
 気まずく感じて、そそくさと立ち去ろうとすると。
「何を落とされたんですか?」
「その、簪の飾りを。小さいものなので、見つからないかもしれません」
「どんな飾りです?」
「金属製で、猫の形をしていて、顔には1つしか目がなくて」
「この辺りで落とされたんですね?どれどれ」

 そう言うとそのひとは立ち上がり、地面を探しだしました。
「そんな、お気遣いなく」
「いえ、どうせ暇なんで」

 しばらく一緒に探していただいたのですが、どうにも見つかりません。
「あの、見えるところは全部見たと思うので……雨で流された可能性もありますし、今日はもう諦めます」
「そうですか」
 そう言いながらもそのひとは、探すのをやめる気配がありません。
「あの」
「いや、俺、どっちにしてもしばらくこの辺にいるんで。気になるし、もうしばらく探してみますよ。もし見つけたら、拾っておきます」
「あ、なんだか、すみません」

 お礼を言ってその場をあとにしました。
 気になって振り返ってみると、ベンチの周りを前屈みで歩き回る若い男性。
 なんて親切な方なのでしょう。

 でも探す様子はどう見ても不審者です。

 そのうち待ち合わせの相手が来るのだろうな、と想像しました。
 相手の方はベンチの周りを歩き回るあの方に声を掛けるのでしょう。

「何してるの?」
「探し物」
「何を?」
「1つ目の猫」

 どう考えても不審です。

 どうかあの親切な方が不審者扱いされていませんようにと、心から祈りつつ帰路につきました。
 今回のなくしものは見つかりませんでしたが、それでも親切な方に会えたのでよかったです。

 世界には思いのほか、親切な方がたくさんおられます。
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2006年02月01日

美術館の制服

 京都国立近代美術館で開催中の「ドイツ写真の現在」展に行ってきました。

 館内に入ると、ロビーでは展示に伴い「uniformed museum staffs」という企画が行われていました。
 京都造形芸術大学の学生さんが展示に合わせた看視員の制服をデザインし、それを展示、展示室の看視員が着用するという試みです。希望者は制服を着用して観覧をすることも可能、とのこと。

 仮装好きかつ制服好きの私がこのような企画を見逃す道理はありません。
 早速担当者の方に申し出て、制服をお借りしました。

 渡された短い丈の白衣を羽織り、館内をうろうろ。
 純粋に写真のみを見てほしい、という狙いでしょうか。説明文は一切無く、順路表示さえ存在せず、ただ淡々と壁に写真が飾られている展示でした。
 随所におられる看視員さんの白衣も、空間を構成する要素として効果的に働いていました。展示に合わせて制服を作成するという試み、個人的には成功だったのではないかと思います。

 そういった展示の質ゆえ、先入観なく作品と向き合える代わりに作品の詳細な背景がわからないという問題も。トーマス=デマンドの作品などは、それだけを見ても作品の意図が伝わりにくい気がします。
 まずは予備知識なしで行き、帰って作品についての情報収集、その後再度展示に足を運ぶというのが理想的な観覧方法かもしれません。 

 表示がシンプル過ぎて困ったことは他にもありました。
 白い床に薄い灰色の線が引いてあって、それより作品に近づいてはいけないという意味のようなのですが、その線を見落としまして。
 うっかり作品に近付き過ぎてしまい、
「お客様、申し訳ございませんが……」
 と、注意を受けることに。
 申し訳ない気持ちと、「注意する側もされる側も看視員の服を着ている」という状況を面白がる気持ちが入り混じり、実に不思議な気持ちでした。

 京都での開催は12日まで。(「uniformed museum staffs」は5日まで)
 ドイツ好きと写真好きと衣装好きの方は、週末に足を運ばれてはいかがでしょうか。
 衣装好きの私には楽しめる展覧会でした。

 いや、写真もちゃんと観ましたよ?
posted by にくす at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

カラオケの特殊技能

 自己紹介。

 髪が長くてやたら敬語で、ひとみしりをする性質で読書が大好き、妖怪や呪術の話になると活き活きする、などの特徴のせいでしょうか。
「黒魔術使いそう」とか「人外の何かっぽい」とか「呪わないでね?」とか、そういう評価を戴くことがままあります。
 似ている有名人は貞子です。(緒方ではなくリングの)

 そういった事実を踏まえて今回は、週末にカラオケに行ったお話。

 笹川美和の「止めないで」を歌ってみました。
あなたを憎んだから あたしは愛を知れたから
あたしは恋したこと きっと忘れないから
「なんか情念がこもってて怖いよー」
 というご感想をいただきました。

 ではもう少し軽快な曲を、と思って歌ってみたのは大塚愛。可愛い印象のある歌手さんです。
行きたいよ 君のところへ 今すぐ かけだして 行きたいよ
真っ暗で 何も見えない 怖くても大丈夫

(大塚愛「プラネタリウム」)
「なんかこの世の果てまで追っかけていきそう」
「むしろあの世まででも追っかけていきそう」
「そして死人を呼び戻しそう」
 ……褒められているのでしょうか。

 古い歌も歌ってみました。
あなたを知った その日から
恋の奴隷に なりました
右と言われりゃ 右むいて
とても幸せ
影のように ついてゆくわ
気にしないでね
好きな時に 思い出してね
あなた好みの あなた好みの 女になりたい

(奥村チヨ 「恋の奴隷」)
 私が悪かったです。
 そんな目で見ないでください。

 こうなったらあえて自分の個性を活かした選曲をしてみることにしました。
「Coccoとかなら、かえってそれっぽく歌えるんじゃないかな」
さぁ 早くして
撃ち殺されたいの?
血迷った過ちに
気付いて泣き叫ぶがいい
はり裂けたこの胸に
甘えてごらんなさいな
時間がないわ
跪き 手をついて
わたしに謝りなさい
力なく しなだれて
わたしを愛していると
つぶやきなさい。

(Cocco「カウントダウン」)
 ご期待に沿うべく全力で歌ってみたところ、泣き叫ばんばかりに怖がられました。
 肩を寄せ合いふるふるしながらこちらを見ていた方々の姿を思い出すにつけ、なんだか申し訳ない気持ちで胸がいっぱいです。
Your best! My best!
生きてるんだから
失敗なんて メじゃない!
笑う門に福来たるでしょ!
ネガティブだって ブっ飛ぶぅ〜!
命の花 咲かせて!
思いっきり〜
もっとバリバリ!
プリキュアプリキュア
プリキュアプリキュア
プリティでキュアキュア
ふたりはプリッキュアー!

(五條真由美「DANZEN! ふたりはプリキュア」)
 結局、歌っても怨念が篭らなかったのはアニメの主題歌くらいでした。
 しかしこれはこれで別種の怖さがあるような気がしなくもなく。

 概ね何を歌ってもなんだか怖くなるというのはひとつの特殊技能かもしれませんが、活かしどころがみつかりません。
 どうしましょう。

 悲しいことですが、現実とは向き合わねばなりません。
 己の姿と向き合いましょう。
 貞子似で妖怪属性で今にも祟りそうな自分を受け入れていきましょう。
 この際ですのでいっそ自己肯定ついでに、「眼鏡っ娘」「ツンデレ」「妹系」などに続く萌え要素として「怨念系」という概念を提唱していきたい所存です。怨念系キャラ。怨念系萌え。
 趣味は呪術、尊敬する怨霊は管公、将来の夢は祟り神です。萌えられるものなら萌えてみてください。どうぞよろしくお願いします。

(2007.03.27追記)
 こんな日記を書いてしばらく後に、ヤンデレという言葉ができていました。
 ヤンデレとは(はてなダイアリー)
 萌えとは本当に色々なものに適用できる概念なのですね。

 そしてこんな言説。
 新ジャンル「自称ヤンデレ」(偏読日記@はてな)

 現実世界の住人として、なるたけ病まずに生きていこうと思います。
 あくまで健康な呪術好きでありましょう。
posted by にくす at 22:22| Comment(2) | TrackBack(1) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

専門家の音感

 週末、先輩の狐さんとそのお知り合いの方とごはんを食べる機会がありました。

 1人はオペラ歌手、声楽家です。そしてもう1人はスロヴェニアからの留学生。狐さんと親しい板前さんがスロヴェニアへ暗黒舞踏の公演に行った際知り合われたとかで、舞踏や音楽の研究をなさっています。
 つまり、2人とも音楽の専門家です。

 お店で食事を待つ間、飾りとして西欧のおもちゃと思しき小さな弦楽器が置いてあるのに気付きました。
 他のお客さんもいない状態でしたので、少々騒いでも問題ないでしょうと手に取って遊んでみることに。
 琴を変形し、小さくしたような形の楽器です。机の上においてピックで弦を弾くことで音を出します。
 弦の下に敷いた楽譜に合わせてピックを動かせば自然と音楽が奏でられるようになっており、演奏は実に容易。楽器演奏は全くできない私にもなんとか曲を紡げるというのがとても嬉しくて、うきうきと簡単な曲を弾いて遊びました。
「わあ、これ面白いです」
 そんな風ににこにこ弦を弾いていると、声楽家の方が微妙な表情で言いにくそうに。
「でもそれ、音、ずれてるね」
「え?」
「調律をきちんとやっていないから、音が狂っちゃってる。直さなきゃ」
 きょとんとしていると、留学生の方も。
「うん、音がずれている。変な感じです」
 どうやら2人とも音の狂いに気付いていて、それが気になって仕方がなかった様子。
 さすがは音楽の専門家です。小さな音の違いもきちんと判別する素晴らしい音感を目の前に、ちょっと感動してしまいました。

「あの、よかったら調律してみようか?そういう形の楽器なら、弦を調整すれば」
「あ、いえ、お店のものをあまり弄っちゃ悪いかもしれませんし……でも凄いですね」
「凄い?」
「ええ、ほんの微細な音の違いに気付けるなんて凄いです。やっぱり音楽家の方って音感が優れておられるんですね」
「うーん、いや、優れているっていうか」
「私なんか、弾いていても全然音の狂いに気付きませんでした。ねえ、先輩」
 そう狐さんに同意を求めると、彼女は物凄く言いにくそうに。
「……いや、これはわたしでも気付いた」
「あら」
「だってこれ、相当音違うもん」
「違い……ますか?」
「うん、なんか普通に聞いた瞬間『あれ?』ってなると思うんだけど……」

 見回してみると、どうやらこのメンバーのなかで音の違和感に気付かなかったのは私だけであった様子。
 どうやら専門家の音感が凄いというよりも、むしろ私の音感が致命的に駄目なのだということが判明しました。
 相対的に周りが全員凄い方々に見えて、少し肩身の狭い気分に。

 友がみなわれよりえらく見ゆる日よです。しかしながら花を買う妻がおりませんので、われ泣きぬれて蟹とたはむる。

 音楽は大好きなのですが、どうにも鈍感でいけません。
 おおらかと言い換えれば、あるいは長所になるのでしょうか。
 ともあれこれを機に、もう少し音に対して注意深くなってみようかなと思いました。あまりにぼんやりと音楽を消費しては、音楽作りを生業とする方に申し訳ない気がします。

 目標は「せめてひとなみ」。
posted by にくす at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

徹夜の秘訣

 先週末はずっとおでかけでした。

 土曜の昼間はサークルの新人さんとお茶。そのあとサークルの飲み会、喫茶店で一休みした後カラオケに。徹夜で歌って、朝になったらみんなでおうどん屋さんに行って朝食。その後残った子とファーストフードショップで少し時間を潰し、時間を見て待ち合わせしていた先輩の所へ。電車に乗って移動、先輩にオペラ歌手の方とスロヴェニアから留学中の学生さんを紹介して戴き、留学生の方のおうちで手作りのスロヴェニア料理をご馳走になったあと、ちょっとしたコンサートを鑑賞。そのあと和菓子屋さんなどを冷やかしながらうろうろしたあと皆で夕飯を食べて、雪の舞う中帰路に付き、家に着いたのは日付が変わる直前でした。
 つまり、ほぼ2日を寝ずに過ごしたことになります。

 睡眠時間がないとねむねむで少々元気がなくなってしまうのが常なのですが、先週末は随分元気に2日間を過ごすことができました。
 あまり丈夫な身体の持ち主ではない私のどこに、そんな元気があったのかと考察。

 考えた末「常にひとと一緒にいたからではないか」という結論に達しました。他のひとと一緒にいる緊張感が、眠気を忘れさせてくれたのかもしれません。
 しかも、先週末はサークルの新人さんをはじめ出会った方が悉く綺麗なひとで、なんだか常に美人な方が傍にいるという非常に幸福な状況が延々続いていたのです。
 いったい、美人を前にするという幸福の前で、眠気などという些事を気に留めるひとなどいるのでしょうか。

 ああ、本当に、本当にこれ以上なく幸せな週末でした。

 綺麗なひとと一緒にいると、なんだかそれだけで元気になります。
 もしも綺麗で仕事のできる方が私の傍に居て、一日中付きっ切りで指示を出して下さるなら、私はそれこそ寝食なしででも意気揚揚とあらゆる仕事をこなし、素晴らしい成果を齎してみせるでしょう。
 おそらく寿命は縮みますが。

 だけれど心酔した相手にならば、使い潰されるも本望です。

 そういうわけなので雇用者募集。どなたか人材使役能力に自信のある容姿端麗な方、私を雇ってごらんになりませんか。
 分野によってはそれなりにいい仕事をします。

 ただし能力にやや偏りがあるので、任せる仕事を誤ると大変なことになります。
 料理を任せる際は、失明も辞さない覚悟でどうぞ。
posted by にくす at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月26日

いけないことの誘惑

 以前、ある劇団のお芝居を観ました。
 照明、演出は格好の良いものでしたし、脚本もまあいくらかの粗は気になったものの見られるレベル。役者さんの動きにも切れがありました。
 ですが、全員早口な上に滑舌が悪いため何を言っているのかわからない場面がいくつかあったり、台詞の間を詰め過ぎて明らかに何も考えずに喋っているのが解ってしまったりと、総合的には残念な所の多いお芝居でした。
 セットだけは文句の付けようがないほどに素晴らしい出来だったのですが。

 最近またその劇団がお芝居をやるという告知を見まして。
 前回の出来が上記のようにあまりよろしくなかったので、観に行ってもがっかりするだけかもしれないな、と思いました。

 で、観に行って、期待通りがっかりしてきました。
 今回は脚本も今ひとつだったので、前回と比べてもよりがっかり感が増した感じです。
 セットだけは今回もやっぱり素晴らしい出来だったのですが。

 期待できないお芝居と解っていながら、どうして観に行ってしまったのだろうと思います。
 期待できないことは解っているけれど、次の公演があったらやはりそれも観に行ってしまうような気がします。

 だって。
 もしかしたら、次の公演では今回より何かがどこかしら少し良くなっているかもしれません。
 全く期待せずに観に行ったものが思いがけなく面白かったら、そのときの嬉しさは「面白そうだと思って観に行ったものが予想通りに面白かった時」よりもっと上のもののような気がするのです。
 そんな一縷の希望とか、あとお芝居はつまらなくても劇団員の方の頑張りには好感が持てるとか、自分を苛めるのは結構好きだとかの理由から、なんだかんだで次回も僅かな観劇料と1時間程度の時間くらいは喜んで浪費してしまうのではないかと思うのです。

 話は変わりますが。
 最近、帰り道を少し逸れた所にトンネルがあるのを発見しました。
 前を行く人がそのトンネルをくぐるのを見て、なんとはなしにふらふらと附いて行ってトンネルをくぐり、そのまま適当に移動していたらいつのまにか全く知らない場所に着いてしまいました。

 ここはどこでしょう。

 高い建物の位置から大まかな現在地を推定し、なんとか自宅に近付こうと移動を重ねるも、いかんせんそこは住宅街。ちいさな路が入り組んでいて中々思うように進めず、時に私有地と思しき場所に迷い込むのを繰り返しながら、どうにか見慣れた場所まで復帰。
 普段よりも時間をかけて、なんとか家に辿り着いたのです。

 うかつに知らない路に入り込むのは大変危険なことだと思いました。
 思ったのですが。

 その後もついつい油断するとそのトンネルを通ってしまいます。
 で、その都度知らない路の方に進んでは迷います。
 なぜだかわからないのですが、帰り道に見かけるあのトンネルには曰く言い難い魅力があるのです。
 通れば面倒なことになることはわかっているのに、引き寄せられてしまうのです。

 面白くなさそうなお芝居をあえて観に行ってしまったり、通らないほうがいい道をあえて通ってしまったり。
 どうやら私は余程「やらないほうがいいこと」が好きなようです。
 まあ、そういう嗜好もあるのかもしれません。

 好奇心は猫を殺すらしいので、死なない程度に程好く今後も「やらないほうがいいこと」を楽しみつつ自分を無意味な苦境に追い込んでいきたい所存です。
posted by にくす at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月21日

私のともだち

 今週末は結構色々ありました。
 最近私の中で薔薇が流行しているのを受けて薔薇園で思う存分その美しさと香りを愛でたり、よさこいの集団に遭遇したり、博物館でサリーの展示を見てその可愛らしさに感銘を受けたり、ステージの上でスポットライトを浴びて印度の踊りを披露したり、素敵な匙を購入したり、チャイナ服を着てパレードに参加したり、フリーマーケットでの値段交渉を楽しんだり、エイサーの集団に遭遇したり、またよさこいの集団に遭遇したり。
 そんな風にいろいろあった中でも、格別嬉しかったことの話を。

 電車を何本か乗り継いで博物館に着き、観覧を終えた帰り道。
 ふと、ひとつの経由駅の近くに高校時代の友人が住んでいることを思い出しました。
 そういえばあの子は今月が誕生日だったな。
 何年も会っていないけれど、いったいどうしているだろう。
 思いつきで、最寄の公衆電話から携帯に電話をかけてみることにしました。

 公衆電話からの発信なので、向こうにはこちらが誰だかわかりません。
 出てくれるだろうか、出てくれたらなんと名乗ろうかなどと思案しつつ、呼び出し音を聞くこと数回。
 怪訝そうな声で、その子が出ました。
「もしもし?」
「もしもし。あの、私、高校で一緒だった……」
「ああ、ペコちゃん!?」
 名乗る前にあの子は私を私だと気付いて、昔の仇名で呼んでくれました。
「うわあうわあ久しぶり、どうしたの!?今どうしてるの!?」
「うん、あのね……」
 手短に、今近くの駅にいること、会いたいと思ったこと、無理ならせめて電話で誕生日を祝いたかったこと、などを話しました。
「そういうわけなんだけど、今暇?」
「あー、今彼氏と一緒なんだ」
「そうか、じゃあ邪魔するのも悪いね」
「だけど折角だし、そうだ、ちょっと待って……うん、彼氏が車出してくれるって。ペコちゃん、そこから家まで電車で結構あるでしょ?今から迎えに行って、車で送るよ」
「え、でもそんな急に、いいの?」
「いいのいいの。じゃ、待っててねー」

 電話が切れました。
 待つことしばし。

 ちょっと離れた場所に車が止まり、そこから女の子が出てきました。
 私より随分小柄で、昔のままに綺麗な髪で、だけれど制服を着ていたころよりも格段にお洒落になって、化粧をして大人びた顔立ちになったかつての同級生。
 その子は遠くからすぐに私の姿を見つけ、跳ねるようにこちらに駆け寄ってきました。
 あの頃教室でそうしたのと同じように、久しぶり、と言ってごく自然に私と手を繋ぎ、それじゃあ行こうか、と車の方に案内してくれました。
 それは本当にいつも通りのようなやりかたで。
 会っていなかった何年かの月日は、その瞬間「なかったこと」になってしまったようで。

 ああ、この子は私のともだちだったんだ。
 ずっと忘れていたけれど。
 どれだけ会わなくても、互いの環境がどれだけ変わっても、この子は私のともだちなんだ。
 そんな風に思いました。
 暖かな手と屈託のない笑顔には、そう思わざるをえないような力がありました。

 その子の彼氏の車で、最寄駅まで送っていただきました。一時間くらいのドライブです。
 その間殆ど途切れることなく、昔話と近況報告に花を咲かせました。

 駅に着いて、また遊ぼうねと言って別れました。
 互いの都合もあるので、当分再会することはないとわかっていました。
 きっと次に一緒に遊ぶのは、随分先になるでしょう。
 それはもしかしたらまた何年も先のことかもしれなくて。

 だけれど特別それを寂しいこととは思いませんでした。
 なぜだか大丈夫なのだと思いました。
 いつでも私はここにいるし、あの子はそこにいるので、何も問題はありませんでした。

 私の声を覚えていて、手を繋いでくれるひとがいるということ。
 それがひどく嬉しく、心強いことのように思えました。

 それだけの話です。
 特に面白くもない、特殊な事件でもない、多分ごくごく平凡な話です。

 だけれど私にとって、あのとき普通に手を繋いだことはとても特別なことでした。
 そういうものは、きっと誰にでもあるのだと思います。

 たまにそういうものがあるから、中々生きるのをやめられないのだよなあと思います。
posted by にくす at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月13日

ダブルダッチの感動

 今日は学祭に行ってきました。

 自分の母校に比べると阿鼻叫喚度の低いお祭りでしたが、理工系学部があるということでそれ系の展示が多く。専門分野ではない色々な研究の成果を興味深く見ることができました。
 理系の知識はあまりないので、各展示室で案内員の方に適宜解説を聞かせていただきました。中には結構人と話すのが苦手な感じの方もおられて、どれくらい苦手そうかと言うと説明中に吃る、黙る、目が泳ぐ。
 個人的にそういう性格でなおかつ外見が可愛い人は大好きですので、積極的に話し掛けて皆様のひとみしりぶりを堪能させていただきました。(自分もひとみしりなので、同じような方に会うと安心するのです)

 さて。
 そもそも今回このお祭りに来たのは、人に誘われたからでした。
 最近知り合った方がダブルダッチをやっていて、この学祭で発表するから是非見に来て欲しいと言って下さったのです。
 しかし私はダブルダッチがどんなものなのかよく知りません。伺った説明によれば
「チームを組んでやる、凄いなわとび。格好いいですよ」
 とのことなのですが、まあ確かに上手ななわとびというのは格好いいものですが、しかしなわとびはなわとびです。チームを組んでやるなら大なわとびです。運動会でやった思い出などを振り返るに、どう頑張ったらなわとびがそんなに格好良くなるのかいまひとつ想像がつきません。
 半信半疑でとにかく発表会場まで行ってみました。

 感想。
 凄く格好良かったです。

 なんというか、ストリート系のダンスに跳ねる動きと縄を廻す動きを組み込んだようなものでした。
 跳ぶ人と縄を廻す人がめまぐるしく入れ替わり、跳びながらアピールをしたり手を地面に着いたり。捻りを入れたジャンプのあとに足を高く跳ね上げ、地面に頭を着けたかと思えば次の瞬間隣の人の背中に乗って転がるようにまた跳ねて、そのまま空中で別の人が投げた縄の端を掴んで廻し手に早変わり。その間も別の人はそれぞれ自分の動きをこなしていて、しかも息がぴったり。
 ひとというのはこんなに高く跳べるものなのかと思いました。
 しなやかに伸びる腕が、軽々と地を蹴る脚が、結んだ髪の先が跳ね回る様子が、素晴らしく綺麗だと思いました。

 私はいわゆる「ストリート系ファッション」……いわゆるだぶだぶのズボンにTシャツ、じゃらじゃらつけたアクセサリーといった格好をどうしても素敵だとは思えずにいました。
 わざわざ身体の線に合わない服を着てだらしのない印象になってしまっている人を見る度、この人の美的感覚は一体どうなっているのだろうと理解に苦しんでいました。
 ですが今回生まれてはじめて、そういう格好を素敵だと思いました。
 ああいうゆるみのある服で激しく動くと、中の身体の動きがとても美しく見えるのです。

 街中で見かけるだぶだぶの服を着たひとの多くがあまり綺麗でないのは、きっとそのひとの動きが洗練されていないからなのでしょう。指先や背筋、足運びなどに若干の神経を使って無駄のない動きを心がければ、服のゆるみも決してだらしのないものには見えないのかもしれません。
 だって今日見た彼らの姿は、空気を孕む布地からきらめく大振りのピアスまで、全てがとても綺麗だったのですから。
 安っぽくてだらしなくて全然私の好みの格好ではないはずなのに、それでもあそこではひどく美しいものに見えたのですから。

 そんなわけでダブルダッチにはとても感心しました、とても良いものを見ました、というお話でした。
 ただひとつ心残りがあるとすれば。

 私をダブルダッチ観覧に誘ってくれた方のチームは、どうも私が見に行ったものとは違ったらしいということくらいです。
 場所が違ったのか時間が違ったのか、結局その方の姿を見つけることはできませんでした。

 誘ってくれた御礼を言いたいのですが。
 この感動を伝えたいのですが。
 そうして今後の活動を応援したいのですが、私はあの方の公演を見ることができていません。
 是非見に来て欲しいとまで言って下さったのに、後日「ごめん、間違えて違うチームのを見ちゃった」と言うのはあまりに気まずい気がします。
 いったいどうすれば。

 とりあえずあの方の心の広さに期待したい所存です。
posted by にくす at 23:43| Comment(4) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

私の居られない場所

 最近、2つのお祭りを見物しました。

 ひとつは来年のイベント開催を目指して実行委員会を立ち上げるべく集まった会。何人か発案をした、いわば主催者側のひとびとがいて、それに呼ばれて集まってきたひとたちがいて。お祭りというよりは、参加者を募って開いた初回のミーティングです。
 結論から言いますと、私はこのお祭りには参加できないと思いました。

 そのミーティングで、イベントの名称を決める話になったとき。
「**まつり、みたいな楽しい感じの名前にしたいね」
 というような案が出たところで、それに異を唱えた人がいました。
「祭りといえば、学生の時は『体育祭』とか『文化祭』とかそういうものに馴染めなくて……」
 繊細そうな雰囲気を纏ったその人は、一生懸命な口調で自分の「祭」に関する嫌な思い出を訥々と、長い時間をかけて話したのです。

 それに対して、主催者側の1人(今まで色々なイベントを主催しているらしく、年齢的にも一番のリーダー格のような立場の人)が強い口調で
「そういうことを言うなら、わたしはあなたとは一緒にイベントを作っていけない。折角お祭りノリで盛り上がっていこうね、っていうときにそういう風にぐちゃぐちゃ言って欲しくない」
 というようなことを言い放ちました。
 発言者が慌てて「祭りという言葉を否定したかったわけではない」と説明しても、そのひとへの糾弾めいた言葉は止まりませんでした。

 それを聞いてああ私がこの集まりに参加するのは無理ですねと判断しましたので、以降はお菓子を食べることとお茶を飲むことに全力を尽くしました。おいしかったです。

 祭に関する嫌な思い出を語りだしてしまった人の発言は、適切なものではなかったと思います。そこは名称を決める場だったのだし、その人は別に「祭」という語句に対して何か問題提起をしたいわけではありませんでした。ただ場の空気を読めずにその場で思い出したことを語りだしてしまったという感じでした。
 だから、それを制する発言が出たのは当然のことです。
 だけれどそれはああいう形で行われるべきではなかったと思うのです。
 主催者側にいるひとが「私はあなたとは一緒にやっていけない」と言ったとき、それは「だから自分がこの集まりから抜ける」という風には響きませんでした。不適切な発言をしたひとは排除する、という意味合いにしか取れませんでした。
 ただ論旨のずれを指摘すれば、それで済んだはずの話なのです。
 だけれど主催者はそうしなかったし、自分の発言の不適切さにも気付いていませんでした。おそらく、最後まで。
「自分の正しさを疑わないひと」というのはとても怖いです。

 集団行動が苦手な私には、適切に場の空気を読んで主催者が求める発言をする自信がありません。このひとが中心となって動かす団体なら、遅かれ早かれ確実に排除されてしまうでしょう。
 誰かを排除してこそ統率の取れた整然たる集団ができることもあるのかもしれませんが、そんなところに居たいとは思えませんでした。
 ここは私の居られる場所ではないのだと思いました。

 もうひとつのお祭りは学園祭。
 ルール無用の学園祭というか、至るところに変な建物が立ち並び、売っているものは芸術品からごみまで。常に誰かがどこかで変な格好をしていて、常に誰かがどこかで踊っていて、歌っていて、笑い転げていて泣き崩れていて酔い潰れているとにかくそういうお祭り。
 私はここのお祭りが好きです。
 どんな格好をしていてもいいし、どんな歌を歌ってもいいし、どんな踊りを踊ってもいいし、何もしなくてもいいのです。

 ふたつのお祭りを見て、自分が今所属しているサークルのことを考えました。
 一応そのサークルでWeb担当、実質代表のようなことをやっているのですが、私は決して能動的な性格ではないので「どんどん活動を発案して皆を引っ張っていく」ということができません。いきおい現在、活動は飲み会ばかりのだらだらしたサークルになっています。
 これじゃいけないかなあ、もっとちゃんとしなきゃいけないかなあ、と悩んでいたところでした。

 だけれど。

 先頭に立って皆を整列させて、合わない人は排除して、まっすぐ何かの目標に向かって行進していくような、そんな団体には馴染めない気がするのです。第一方向音痴の私が先頭では、どこに着くかわかったものではありません。
 なんだかわからない人たちがなんとなく集まって、誰が先頭だかもよくわからない状況で、どこにいくでもなくぞろぞろうろうろ。混ざりたい人は混ざればいいし、抜けたい人は抜ければいいし、とにかく一緒に居るのが楽しいならそれでいい。そんな無目的な百鬼夜行っぽい集まりがあってもいいのではないでしょうか。

 私は楽しく歩きたいのです。
 誰も排除せずに、何も否定せずに、からからと笑いながら。
 そんなやりかたではどこにも行けないとしても。
 そんなやりかたができないのなら、私はどこにも行けなくていい。
 どこかに行くことなんかより、歩くことそのものを楽しむことのほうが遥かに大事なことなのだから。

 そんな風に思いました。
 実現できるかどうかはわかりませんが。

 だけれど現実は常に理想を下回るものですから、せめて志は高く持とうと思うのです。
posted by にくす at 22:38| Comment(2) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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