2008年05月01日

誰かのために何かしたいけれど、それは[チベット問題]

 こんな記事を読みました。

 長野、チベット、北京、東京 旧友との会話 (Hopeless Homeless)
「オリンピックから抗議が広まり、情報が中国国内へ浸透した結果、必ず、内乱が起きる。中国全土、すべての省で独立運動が起き、共産党幹部は粛正される。戦火が中国全土を焼き付くし、残った人民解放軍たち、共産党にも劣る小皇帝たちが、中共よりも愚かな圧政を敷く。人々の暮らしは更に酷くなる。そして、さんざん荒廃した後で、欧米大国に鎮圧され、中国人は骨抜きになる。今、弾圧され殺される人々の何十倍何百倍もの人間が死ぬことになる。気分で、チベットを守れだの独立させろだのと、私は、簡単には言えない。
(中略)
もうしばらく待てばいいのだ。文革で生き残ったカス世代は第一線を退き、93年のメディア解放以降に学生だった世代が実権を握る。私有財産が都市部住民の意識を変えるのに10〜20年、辺境まで浸透し全土が変わるのは30年後、30年待っていれば、中共はおのずと解体される。でも、今、刺激したら、分裂し内乱が起きるだけ」
(中略)
今、目の前で、数百人のお坊さんが殺されようとしている、事実が、私の「情」を動かす。
けれどその「情」が、友が恐れるその未来を、引き寄せてしまうのかもしれない。

わからない。今、チベット人が、ウイグル人が漢民族が、弾圧され死んでゆくと知った後で「もう30年、殺されていく人々を黙って見ていれば、うまくいく」と言われ、待つことが正しいのか。
どちらが、より正しいのか、よくわからない。
 先日、ダライ・ラマに関する記事を書きました。
 チベットのひどい状態を伝える報道にいたたまれなくなり、せめて自分の知っていることを書いておこうと思って上げた記事でした。
 根底にあったのは、その悲惨な状態を知っても自分には何もできないことへのはがゆさでした。

 冒頭の記事を読んで、益々強い無力感を感じています。
 書き手さんが、そのご友人が繰り返し呟く「わからない」という言葉の重さに胸を衝かれ、それでもその状況を無視できない苦悩に共感します。
 そうして、何度考えても「わからない」から「何もできない」というところに辿り着いてしまい、絶望します。

 自分の正しさを信じて疑わないひとが一番悪いことをするのだと知っています。
 だから常に自分を疑い、ひとを押しのけて何かを主張することを避けてきました。
 自分の正しさを信じられないので、拳を突き上げ声を張り上げて叫ぶことができません。

 ひとつの主張を押し通すことは、それに対抗する考えを圧迫することです。
 ある行動で誰かが救われるのだとしても、別の誰かが犠牲になる可能性があるなら、私はそれを選択することができません。
 ひとつのことを大事にすれば、それ以外のなにかを切り捨てざるを得ません。
 何かを選んで切り捨てることができない私には、何を変えることもできません。
 ただ見ているだけ、考えているだけというのがいかに無為なことだか解っていても。

 それでも、悩むのではなく考えること、それを何らかの形で発信することだけはやめずにおこうと思います。
 それで何も変わらなくても。

 それしかできることがないなら、せめて。
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2008年04月17日

私の見たダライラマ

 8年前、ダライ・ラマ14世の講演会に行きました。

 中国政府が神経を尖らせる中、政治的な活動を行わないことを条件に許可された来日でした。
 当時の私は今より更に幼く、それに加えて10代になったばかりの頃に、新興宗教団体とのあまり楽しくない接触がありまして、自衛のためにあらゆる価値観を疑うことを覚え、随分ひねた子供になっていました。相当斜に構えた態度で聴講に行ったのを覚えています。
 宗教や信仰はひとを救わないしひとはひとを救わない、チベット仏教の最高指導者であってもそれは同じはず。
 それがどんなお話をするのか聞いてみよう。
 そうして、以前経験した宗教団体との対話のように偽善や詭弁に満ちた内容であったら、安心して幻滅しよう。
 そういう、相手を試すような、実にどうしようもない気分で客席に座りました。

 どのような内容の公演であったかはっきりと覚えていません。
 ただ、易しい言葉で、ひとには思いやりをもって接しましょう、というような、当たり前で、だけれど大切で忘れるべきでないことを伺った記憶があります。
 仏教、宗教の話に絡めることもなく、共感しやすい内容でした。
 なにより存在に力があり、聞いていて尊敬と好意を感じました。
 聞こえてくるのは自分にはわからない異国の言語なのに、その言葉に、声に引力を感じました。
 素直に聴きたくなる言葉の力を前に、自分が抱えていた他者への不信と傲慢さをすこし恥じました。

 最後の質疑応答で、おどおどとした女学生がたどたどしく
「自分はひとと接するのが苦手で、どうすればよいか」
 というような質問をしました。
 集団の中で発言する緊張か、挙動不審といっていいくらいおびえているように見え、きっとこのひとは生きづらいのだろうなあと思いました。
 同時に、こんなひとにこんなところで人生相談をするものではないだろう、とも思いました。
 カウンセリングルームならともかく、ここは講演会の会場で、質問者に掛けられる言葉にはどうしたって限りがあります。この場でどう答えても、ここで提示できるわずかな言葉がこのひとの生きづらさを全て解消できるとは到底思えません。
 回答者を困らせるだけの質問のように思いました。

 ダライ・ラマ14世の答えは、特に斬新なものではなかったと記憶しています。
 やさしさ、思いやり、そんな言葉で、間違ってはいないけれど一瞬でそのひとが救われるような奇跡もない、そういう回答でした。

 答えた後、ダライ・ラマ14世はその女学生を壇上に呼び、軽く抱きしめました。
 べたべたした接触ではなく、そのひとの存在を受容するようなとても優しいふるまいで、そこには暖かな意志を感じました。
 ものものしい警備の中の講演で、そういう行動があるとは全く予想の外で。
 女学生は感極まって泣いてしまって。

 8年前のおはなしです、私の記憶の中で美化されてしまっている部分もあるかもしれません。
 だけれど私は確かにそのとき、ひとがひとを救うところを見ました。
 少なくともあれは、他者が抱える生きづらさを緩和しようとするおこないでした。

 講演後、ダライ・ラマ14世は気軽に学生から話しかけられる場所にいて、もみくちゃにされるような感じで学生と交流していました。
 いいひとでした。

 現在のチベット情勢は調べれば調べるほど複雑で、私はそれについて多くを語ることができません。
 語り得ぬことについては、沈黙せねばなりません。

 だけれど私は、ダライ・ラマ14世というひとが、見ず知らずの異国の女学生のためにしてくれたことを知っています。
 あのひとのために、あのひとを尊敬しているチベットのひとのために私ができることは、語れることは何だろうと考えます。

 あの講演で語られたように、ひとりひとりが他者に対して思いやりを持ち、みんなが穏やかな気持ちでいられる、そんな単純な幸福の形が現実に顕れればいいと思います。
 不当な理由で苦しむひとがいる状態を許容するべきではないのです。
 その苦しみを緩和するためにやれることがあるなら、あなたはそれをなすべきです。

 あの女学生は今、どうしているのでしょう。
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2007年03月13日

建前としての罵声

 自殺とは「人権」を放棄すること(TERRAZINE)

 自殺という行動を嘲弄することは、自殺の連鎖を止める力になりうると思います。

 日本史の先生から聞いたお話です。うろおぼえ。
 幕府がキリシタンを弾圧したとき、禁教令に背くものたちをどんどん殺してしまいました。
 が、宗教のための死は「殉教」という尊い行為だと信じているひとびとは死を恐れず、中には自ら処刑人の手に掛かることを望むものさえありました。
 そこで幕府は、殉教者が崇拝の対象にならないよう、考えうる限り面白くて悲惨な拷問を色々編み出しました。
 具体的には、キリシタンを穴の中に逆さ吊りにしてぐるぐる回し、穴の周囲に愉快な音楽を流しながら踊りまわる集団を置いたりしました。
 滑稽に貶められた死の姿を目の当たりにしたキリシタンのうちからは、棄教するものがいくらも出たそうです。

 棄教した彼らが恐れたのは死ではありませんでした。
 彼らにとっては、その死から崇高さが剥ぎ取られること、その死が面白く消費されてしまうことのほうが、死よりもはるかに恐ろしいことでした。
 だから宗教を捨ててでも生きることを選びました。

 多分、ひとは格好悪いもののためには死ねないのです。

 ならば手を尽くして自殺という行為を格好悪いものにしましょう。
「自殺かっこ悪い」という言説を遍く広めましょう。

 自殺を考えている誰かを生きさせるために無関係な他人が言うべき言葉は、自殺という行為を軽蔑し、面白がり、あるいは無関心を装うものです。
 自殺に崇高な意味なんか与えてはいけません。
 死ぬ理由なんか与えてはいけません。

 もちろん特定の個人に対して言及するときは、それを遺族が見る可能性を考慮しましょう。
 それでもそれを言う必要があるなら、悲しんでいる方を更に追い詰めてしまう覚悟と責任を持って発言しましょう。
 そうでなければ沈黙しましょう。

 自殺を美化することだけはしてはいけないと思うのです。
 若いひとの自殺が報道されると、連鎖的に似たような自殺が増える傾向があるのは、報道のありかたにも原因があると思います。
「自分も死ねばあのように可哀想と思って貰える、注目してもらえる」
 そういう考えが背中を押してしまった自殺も、きっとあると思うのです。

 そのひとを亡くして悲しんでいる方への配慮は大事です。
 だけれど、次の自殺者を出さないための配慮というのも大事なことだと思うのです。
 そのために必要な言葉はそれぞれ違います。

 もし悲しんでいる方が傍にいるなら、慰めるために言葉を使いましょう。
 もし自殺を考えているひとが傍にいるなら、それを止める為に最も有効な言葉を考えましょう。
 誰を慰めることもできないのに、自分の感傷だけで死者への言葉を綴り、無闇に誰とも知らぬひとの背中を押してしまうことだけは避けましょう。
 死者に共感するのは危険なことです。
 言葉は生きているひとのためのものです。

 私はあなたに生きていてほしいので、知らないひとの自殺を愚かな判断だと嘲笑します。
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2006年07月05日

今日のミサイル

 すこし前に、こんな夢を見ました。


 ひととお喋りしています。
 内容は他愛のないこと。
 私はその会話相手を好ましく、慕わしく思っているので、そうやってお喋り出来ることを嬉しく感じています。
 ずっと話していたいと思うのですが、もう多分夜も遅くてとても眠くてつい目を瞑ってしまうので先方の顔は見えません。

 場面が切り替わります。
 明るい場所。なぜだか、現代の日本ではないことがわかります。
 先程までお話していた相手が、どこか、戦争をしている場所に行くことになっています。
 それはとてもおめでたいことなのでお祝いの席が設けられ、いるひとは皆喜んでいるようです。
 私は行かないで欲しいと思っているのですが、そういうことを口にするのはとても我儘なことなのだとわかっています。
 あなたはそこに行くことを誇らしく思っているし、そこに行かなければならないのです。
 ですから私はせめて何かお祝いの言葉を口にしようと思うのですが、適切な言葉がみつからず笑顔を作ることもままならず、俯いて目を伏せてしまったので顔を見ることができません。

 そこで元の、お喋りしていた場所に戻ります。
 訝しげな先方に、見てきたもののことをお話しします。
「夢を見ていました」
「あなたが危ないところに行ってしまう夢でした」
「夢で、よかったです」
 相手の表情は見えません。
 たぶん、急に居眠りした上にそんなことを言い出す私を前に先方は戸惑っておられるのですが、私は先程までの不安感がまだ残っていて、それが夢に過ぎなかったことにひどくほっとしていて、とにかく夢でよかったです夢でよかったですと呟くように繰り返してしまいます。
 安堵のあまりうとうとと眠くなり、瞼が落ちて


 起きた後、自分のいる場所がどこなのかすこし考えました。
 ここは平和な国で、今は平和な時代なのだと思い、そのことに安心しました。 

 そして、今朝。
 起きたら隣国からミサイルが飛んできていました。
 いくつも、いくつも。

 目覚まし代わりのラジオニュースでそれを聞き、寝ぼけた頭で考えました。
 これは、戦争なのでしょうか。
 今いるここは、戦場なのでしょうか。
 私は、大事なひとや自分自身を失ってしまうのでしょうか。
 あの日夢の中で怯えたように。

 いくつかの確実そうなことを頭の中に並べました。
・これは夢ではなく、現実である
・ここはもう、平和な場所でも平和な時代でもない
・今日は休日ではない

 そこで身支度をして朝食を摂り、職場に向かって滞りなく業務を行いました。
 いつも通りの一日でした。

 不思議でなりません。
 自分のいる場所にミサイルが飛んでくるかもしれない、というのは結構な異常事態のように思うのですが、それでも私の周りの日常にはなんら変化がないのです。

 当然のことのようにも思います。
「自分のいる場所にミサイルが飛んでくるかもしれない」
 そんなこと、今に始まったことではないのです。
 考えても怖いばかりで何もできないから、意識に上らせないようにしているだけなのです。
 意識するにせよしないにせよ、そういうことさえも最早日常なのです。
 
 頑丈なのでしょうか、鈍感なのでしょうか。
 危ないことや怖いことはテレビや新聞の中にしかなくて、私はそれを身近な危機として認識できません。
 ここが平和な国というのはただの夢だったのでしょうか、ここは戦場なのでしょうか。

 そうであったとしてもきっと私は、明日もいつも通り仕事に行きます。
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2006年07月03日

滋賀県の知事

 滋賀県知事選挙のお話。

 昨日投開票が行われた滋賀県知事選挙で、無所属新人の嘉田由紀子氏が新しい知事に選ばれました。
 選挙前の報道では、現職有利の見方が大勢。
 私もなんとなく現職が再選を果たすのではないかと予想していたため、意外な結果のように思ったものです。

 現職の政策が支持されるだろうと考えたわけではありません。
 特に今回の争点であった新幹線新駅建設に関しては、賛成するひとがいるとは思えませんでした。
 実際、駅建設の是非を問う住民投票を求める署名運動があったときには、22010人分の署名が集まったのです。
 だけれど前知事は「住民投票は必要ない」「新駅は必要」と主張。結局住民投票条例案は議会で否決され、今年の5月には工事が始まってしまいました。

 それはまったくよいこととは思えませんでした。
 だけれど、仕方のないことなのかなあとも思えました。

 だって、以前にもこういうことはあったのです。
 数年前に持ち上がった、滋賀に空港を作ろうという計画。(2000年に一時凍結)
 誰も空港が欲しいなんて思ってはいなくて、そのときにも建設の是非を問う住民投票を求める署名を集めたひとたちがいて、法定数を上回るだけの署名が集まりました。

 そうやって求めた住民投票条例案は、議会であっさりと否決されました。

 そういうものなのだなあ、と思いました。
 そこに住んでいるひとがどれだけ頑張って訴えても、それは届かないものなのだなあと。
 何万人もの署名は、議会にいるたった数十人によって「必要ない」ものと判断されてしまえば、もう力を失ってしまうのだなあと。
 なんだかわからないうちに大きな工事がはじまってしまうのも、どれだけ反対しても声が届かないというのも、それは仕方のないことなのだなあと。

 だから現職有利との報道を見ても、「そうなんだ」としか思わなかったのです。
 新駅建設に反対するひとがいても、いつも通りそんな声は微々たるもので、いろんな政党や団体から応援されている現職がなんとなく再選を果たして、なんとなく駅が出来てしまうのだろうな、と。
 そんな風に、予想していたのです。

 だけれど結果は違いました。

 きっと、思いのほかうんざりしていたひとが多かったのでしょう。
 必要もない工事の計画が再三持ち上がり、どれだけ反対の署名を集めても「住民投票は必要ない」と一蹴されてしまう状態に。
 そういう状態が嫌で、何かが変わることを期待して、投票所に足を運んだのでしょう。

 そう思うと今回の選挙結果は嘉田氏が当選を果たしたというより、前職の国松氏が選ばれなかったというだけのような気もします。意地悪な見方でしょうか。
 ともあれ、新しい知事さんに期待したいところです。
 すこしでもよい方向に今の県政を持っていって欲しいと、心から思います。

 多くの方々が嘉田氏に投じた票は、そのためのものなのですから。
posted by にくす at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月28日

イダ氏の講演 大峰山のこと

 週末、伊田広行氏の講演を聞いてきました。

 以前にここでも何度か取り上げた話題ですが、昨年11月3日のこと。女人禁制である大峰山に、女性と性同一性障害の男女らを含む団体が登山を試みたことがありました。
 伊田広行氏はその「大峰山に登ろうプロジェクト」の呼びかけ人となった方です。Web上では「イダヒロユキ」とカタカナで名乗っておられるようでしたので、ここで取り上げる際はそれに準じて「イダ氏」とカタカナ表記でお呼びしています。

 講演タイトルが「ジェンダーと暴力 ― バッシング情況への批判」というものでしたので、もしかしたら大峰山の件についてネット上で起こった批判の嵐について、何かお話があるかもしれないと思ったのです。
 だとしたら、数回に亘って大峰山のお話を取り上げた身としては、聞いておくべきであろうと思ったのです。
 あのプロジェクトは一体どのようなものであったのか、自分の中でまとめておくいい機会だと思ったのです。

 が、講演で大峰山の話が語られることはありませんでした。
 基礎知識的な事柄の羅列というか、ジェンダーとは何か、DVはいかにして起こるのか、といったことを簡単に説明するというような内容で、大学で女性学の講義を受けたことのある身としては、特に新味のある内容ではありませんでした。
 公開講座であり、参加者の持っている予備知識も様々であるということを踏まえ、あえてそういう内容の講座にしたのでしょう。(ちなみに聴講者は中高年の方が殆どでした)

 そんな無難な講座でしたが、それでもいくつか気になったことはありました。
「男性が女性に『俺がお前を守る』と発言するのは、女性を弱者という立場に押し込める暴力である」と言った直後に「ホームレスやセクシュアルマイノリティなど、弱い立場の人の権利を守っていく必要がある」と訴えたり。
 「権利を守る」のと「『そのひとを守る』と発言する」のでは意味合いが異なるのかもしれませんが、それにしても紛らわしいというか、少し配慮に欠けた発言のような気がしました。
 「どのようなひとも対等な立場で」と言いながら一方で「弱い人に寄り添っていく、優しい気持ちを」と言ってみたり。
 なにか、平等を謳う優しげな発言に「弱い人」を見下す視点が潜んでいるようで、すこし怖く思いました。

 まあ、どれも細かなことです。私の思い過ごしかもしれません。
 しかし論理性に欠けるというか配慮に欠けるというか深みに欠けるというか数学は不得意そうだというか、そういう印象をもったのも事実です。

 質疑応答の時間には、かわいそうな質問者さんもいました。
 「反ジェンダーフリーの立場です」と前置きして発言したその方のお話は、なんというかもう何が欠けていたのかよくわからないのですがとにかく説得力には欠けていて、非常にかわいそうな空気を会場に齎すことに成功していました。
 あくまで1参加者さんの発言ですし、ここで詳細を語ることは避けますが、この方の質問から得た2つの感想。
・他者を見下した発言に好意を持つひとは少ない
・こういうひとといつも話しているのだとしたらイダ氏もさぞかし大変でしょう
 ちょっと「スピリチュアル」とか「けがれなきたましい」とか言い出したくなる気持ちもわかるような気がしてしまいました。

 で、講演を聞いた時点ではもっと批判精神をもってあれこれ書こうと思っていたのですが、週末には他にも色々ありまして。
 見たかった展覧会を見て、好きなひとたちと遊んで、新しく素敵な方にお会いすることもできて、親切な方によくしていただいて、会いたかった幾人ものひとに会えて、それはそれはしあわせな時間を過ごすことができまして。
 今はもう、何もかもを優しい気持ちで暖かく見守れてしまう気持ちなのです。

 イダ氏の発言に感じた粗?人間ですもの。うっかりすることだってありますよ。
 反ジェンダーフリー?ああ、それもまた思想の多様性ですね。
 いいじゃないですか非暴力。素敵ですよねおだやかな気持ち。
 私たちは分かり合えないかもしれないけれど、あなたのありかたを否定しようとも思いません。

 しかしながらこれで締めてしまうとただのしあわせ自慢になってしまいますので、もうひとつだけ講演の感想を付け加えますと。
 イダ氏は、ホール会場のステージに立って2時間以上はきはきと喋り、更にその後も見知らぬひとからの質問を受け付けて自分の考えを喋ることができるひとでした。
 わかりやすく、きちんと意思を感じさせる、聴衆を引きつけうる話し方で。
 私にはそんなこと、とてもできません。

 そして私はそんなひとを相手に、あえて自分の主義と対立するテーマで話したいとは思えません。
 自分がやわらか戦車並に弱いことを知っていますから。他の追随を許さぬ弱さ。
 例えば私は猫好きですが、イダ氏と1対1で話すことになって「犬より猫が好きだなんて間違っている!古代より人間と生活を共にし、主人に対するあくなき忠誠をみせる犬の素晴らしさをもっと……」などと説得された日には、その迫力に負けて「わかりました犬かわいいです犬」と答えてしまいかねません。(いや、犬も元々好きなんですが)うっかりそんな発言をしてしまえば、同居中との猫に私の愛情を疑われ、関係に亀裂が入ってしまうかもしれません。それは是が非でも避けたい事態です。
 面倒ごとは好きではありません。生き延びるためにはどんどん退却していきたいのです。

 イダ氏は大峰山登山についての自分の日記で、「地元の方と話し合いがしたかった」というようなことを書き、それを受け入れなかった地元の対応を嘆いておられますが。
 それは向こうにとっては些か、過酷な要求であったのかもしれません。
 女性学や社会学に関して特に研究をしているわけでもないごくごく普通のひとびとが、あんなにはっきり喋ることができる方、それも大学講師の方を相手に意見交換をして、それは果たして「話し合い」になるのでしょうか。双方の意見の正当性を問わず、ただ地元の方が論破されて終わるだけなのではないでしょうか。
 そして、地元の方もそれをわかっていたのではないでしょうか。
 議論に勝つのは正しい側ではなく、議論の技術に長けた側です。
 区長が示した「今日は話し合いはしない、質問書にも答えない、そちらの言い分を聞くこともしない」という態度は、このプロジェクトチームに対して地元の方が取れる唯一の意思表示だったのかもしれません。

 そんなことを、考えました。
 退却。
posted by にくす at 17:00| Comment(7) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月25日

試験問題の問題

 2006年センター試験の問題と回答が新聞に載っていました。

 私は殆ど受験勉強というものをしたことがありません。そんな人間が果たしてどのくらい解けるものなのか、少し興味が湧きました。
 数学や地理には自信がないけれど国語ならなんとかなるかしら、と思い、試しに問題を見てみます。
第2問 次の文章は、松村栄子の小説「僕はかぐや姫」の一節である。千田裕生と辻倉尚子は女子高校の同級生である。彼女たちは二人とも文芸部員で、自分のことを「僕」と呼んでいた。これを読んで、後の問い(問1〜6)に答えよ。 (配点 50)
 読んでみましょう。
ぼくに与えられた
ぼくの一日を
ぼくが生きるのを
ぼくは拒む

 尚子の書いたそんな一節が、裕生を振り向かせたのは一年生の晩夏だった。
 冒頭からなんだか難易度の高いことになっています。
「〈二十億光年の孤独〉を読んだ?」
「……うん。泣いた、僕」
「キルケゴールが……もちろん、読んだって半分もわからないんだけど……本を開いただけで苦しくなって……」
「〈死に至る病〉〈わたしにとっての真理〉……僕らをひとことで殺す文句だ」
 なんですかこの不思議女子高生たちは。
 読んだだけで痛々しさのあまりに息苦しくなってきました。僕らをひとことで殺す文句だ。
 成程、これが受験戦争のおそろしさですか。

 問題文にこの小説を選択した判断はある意味大したものだと思いました。
 あと、私が今年の受験生でなくて心底良かったとも思いました。
 受けたとしても、問題文が面白過ぎて試験を解くどころではなくなってしまっていたような気がします。

 受験とは大変なものですね。

 参考リンク:「06年センター試験 問題と解答」 国語第2問 (MSN毎日インタラクティブ)
 「第32回 ボク女のヒ・ミ・ツ――松村栄子『僕はかぐや姫』の巻」(日刊!ニュースな本棚 非モテの文化誌)
posted by にくす at 15:19| Comment(6) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月10日

俺の話を聞け

 タイガー&ドラゴンはいいドラマでしたね。というお話ではなくて。

 昨年書いた大峰山に関する記事に、いくつかのコメントをいただきました。
 それらの中には、いくらか首を傾げるようなものもありました。
(参考:その1 その2

 いずれのコメントも誤読を元にしているため、いまひとつ記事とは噛み合わぬものとなっています。
 しかし、それは止むを得ないことなのかもしれないなあと思うのです。

 「Webの文章は読まれない。スキャンされる。」(憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記)

 ここの文章は決して読みやすいものではありません。長いし文字は小さいし、冒頭で結論を付けたり改行を多く入れたりという工夫も行っていません。
 だから読む人によっては、「イダ氏のプロジェクトを批判している」とか「トランスに対して好意的でない意見を述べている」というような部分だけを抽出して、そこしか読まずに感想を付けてしまうというようなことにもなるのでしょう。
 それを粗忽と断じるのは簡単ですが、それでは何も得られません。
 書き手の側としてもそういった誤解を防ぐべく、Webに置く文章がよりわかりやすいものとなるよう努力すべきなのだろうなあ、と思います。

 だけれど、少し心配なのです。
 上に挙げたコメントを付けられた方は、いずれも「大峰山に登ろうプロジェクト」に賛同している方のようにお見受けできました。
 ならば、もう少し考えて発言をしたほうがいいのではないか?コメントを付けるなら、せめて対象記事を拾い読みで済ませてしまうようなことくらいは避けたほうがいいのではないか?
 そうせずに不用意な言葉をばら撒くことは、「大峰山に登ろうプロジェクト」へのイメージを悪化させることにしか繋がらないのではないか?と。
 そんな風に、思ったのです。

 私は、「大峰山に登ろうプロジェクト」には賛同できません。イダ氏の日記にもいい印象は持っていません。
 しかし、ジェンダーフリーは好きな考え方です。性の多様性を認めていくというのは大事なことだと思っています。
 だからこそ、それを社会に伝えることが出来なかった(と思える)「大峰山に登ろうプロジェクト」を取り上げたのです。もっと巧いやり方があったのではないか、だとしたらそれはどういうものだったのか、ということを考えたかったのです。
 で、女人禁制については「女性差別だからよくない!」というような目だけで見るのではなく、宗教学、民俗学、歴史的な移り変わりなど、色々な切り口から見ていきたい事例だと考えています。(『女人禁制Q&A』は結論先にありきの本でしたので、どうも評価できませんでした)
 反応をみていると、宗教学や民俗学で読み解く、という視点はあまり需要のないもののようにも思えますが。まあ、そういうことがやりたいかなあと思っていたのです。

 どうも、このニュースに関してはただただわかりやすく「最悪!信仰を汚すな!」か「女人禁制は女性差別です!」のどちらかの意見を述べることしか求められていない気がします。
 しかし、そういうものではないだろうと思うのです。
 そんなの、つまらないだろうと思うのです。

 ある方から、「イダ氏がフェミニストやセクシュアルマイノリティの人達に結構支持されていることと、今回のプロジェクトにセクシュアルマイノリティの方々が参加されていたというのがあって、こんな風になっちゃったのかもしれませんね」というようなお話を伺いました。
 そうなのかもしれません。
 「イダ氏のやりかた批判=この人は右翼の、女人禁制賛成派の、ジェンダーフリーをバッシングする人だ!」というように過剰反応してしまう方もおられるのかもしれません。
 Web上であれだけ批判的な意見がみられた後です。ナーバスになる方がいてもしかたないでしょう。

 だけれど、「この問題に触れた人間はイダ氏のやり方に絶対賛同すべし!」というなら、それはやはりおかしいことだと思いませんか?
 あなたが性の多様性を認めていきたいと考えている方なら、思想にも多様性があるのだということを同時に考えていただきたいと思います。

 ジェンダーフリーという言葉は、意図的にジェンダーレスと誤読されたりなんだりで結構かわいそうなことになりつつある言葉です。
 そういう流れに対抗しようと思うなら、ある程度巧く立ち回って言葉を使って自分の主張を伝えていく必要があるように思います。
 叩きどころ満載の質問書を抱えて安易なパフォーマンスをするべきではないし、碌に読んでもいない記事に対してコメントを付けて、不毛な状況を作り出している場合ではない。
 そうでないと、本当に「ジェンダーフリー」や「性の多様性」という言葉は、駄目なものとしか認識されなくなってしまうかもしれない。
 もっと賢く振舞っていただきたいと、切に願っているのです。

 それは難しいことですか?
posted by にくす at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月15日

自分の宿題 大峰山のこと

 そのうちもう一度大峰山のことを書こうと思いながら、なかなか文章に纏めるまで整理できずにいます。
 書きたいことがあれこれあり過ぎてとっ散らかっていますので、とりあえず整理用に控えを。
 もう別に私がとりたてて書く必要のないようなことも混じっていますが。

・前記事への反応の感想
 記事を書いた頃、Web上には登山に対する反発、怒りを表明する意見が溢れているように見えました。
 なのでこの問題に触れることでここにもジェンダーフリーを叩きたい方が来てしまったりするかしら、怖いなあ怖いなあと思いながらおそるおそる記事を書いてみたらセクシャルマイノリティを名乗る方から奇妙なコメントを戴いてしまいました。
 人生は常に予想外です。
 さまるさんは実は女人禁制賛成派の人で、あえて突っ込みどころの多いコメントを寄せることでこの登山に対する反感を広げるという高度な技術を使っていらっしゃるのでは?という疑念が拭い去れませんのでコメント内容に関しては保留の方向で。
 とりあえずさまるさんが他所ではなくここに書き込んでくださってよかったなあと思っています。例えばこの登山をフェミやジェンダーフリー叩きの材料として使いたいと思っている過激なサイトに同じ内容を書き込んでいたら、どうなっていたことか。
 あと、幼馴染さんを読者に想定して作ったここにジェンダー関連の記事を書くことにちょっと抵抗があったのですが、そちらは見事に無反応で一安心でした。

・『女人禁制Q&A』の感想
 全く出鱈目な本だとは言いませんが、「ケガレ」を全て「穢れ」と表記するなど首をかしげる部分が見られます。「女性は差別されてきた」ということを言いたいがために記述が偏ってしまっている感があり、過去の女性の地位を不要に貶めているようで不快に感じる部分もありました。
 少なくともこの本だけを読んで女人禁制を語るには問題があると思います。「機動武闘伝Gガンダム」だけを見てガンダムシリーズ全てを語るのと同じくらい、『sydney!』だけを読んで村上春樹を語るのと同じくらい、「猿の惑星」だけを観てティム=バートンを語るのと同じくらい、問題があると思います。
 また、この本の著者の大多数は、宗教や歴史を専門に研究している方ではないようです。(肩書きを見る限りでは)
 余談ですが、この本の末尾に付いている参考文献一覧、私には殆どが既読の本でした。なので抜き出す情報の偏り、そこにみられる恣意性が気になったのかもしれません。

・女人禁制について
 とりあえず「土木科の学校を卒業した女子は、就職先がない。トンネル工事から排除される」などという話が21世紀になっても続いているというのは困ります。
 だけれど時代の趨勢に任せれば、いずれはなくなるものなのかも。

・本来の意味と食い違ってしまった伝統
 「ケガレ」というのは別に「汚れている」という意味の言葉ではなかったのですが、時間が経つうちに「ケガレ=穢れ」と認識され、女性は劣った存在だというような言説に根拠を与えるものとなってしまったようなこともあると思います。
 言葉本来の意味を知ることで、信仰と女性の登山が矛盾しないものになる部分もあるのではと思うのですが。

・「大峰山に登ろうプロジェクト」の成果
 これまで全然山に興味のなかった人たちを「洞川地区の皆様を応援する署名」に駆り立てるなど、期せずして女人禁制を守るための活動として作用してしまった気がします。

・女人禁制をなくしたいなら、もっと巧いやり方がいくらでもあったはずだということ
 たとえば、「縁起が悪いから女はトンネルには入るな!」と仕事をもらえない女性作業員を探してきて(いっぱいおられると思います)その方を支援する形で
「なぜ女性を山に入れてはいけないのですか?」
と、工事を請け負う会社に質問状を出すような活動だったら、こんな風に叩かれたかなあと思うのです。こちらの主張に対する法律的な根拠もありますし。
 そうでなくても、女人禁制という制度を今の日本で維持していくということには色々無理があります。歴史、宗教を勉強して、女人禁制は現代において正当性のない制度であると訴えることは非常に容易であったはずです。
 そこにどうしてあんなに拙い質問書を用意できたのか不思議でなりません。
 かつて大峰山に登った女性団体がどのような反応を受けたかに関する記述がある『女人禁制Q&A』を読んでいたなら、ある程度このような質問書や登山プロジェクトが人々にもたらす反発は予測できたでしょうに、なぜこの団体はわざわざ叩かれやすい方法を採ったのでしょう。
 もう、この団体は極めて回りくどい方法で女人禁制の保護を社会に訴える活動を行ったのではないかとさえ思えてきます。

・民俗学とフェミニズム的なものとのチャンネルの切り替え
 遊女を「不幸な売春婦」と定義してそこで思考を止めて、それで遊女の全てを知ったといえるのか。
 現代の視点に惑わされて、正しく昔ここにあったものの姿を見られなくなってしまうことはないか。
 思想や主義を大事にするあまり、見えなくなってしまっているものはないか。 

・トランスの方への私怨(本件とは関係ありません)
 どうも私はトランスジェンダーとかトランスセクシュアルとかFTMとかMTFとか、いわゆる「トランス」を自認する方との巡りあわせが悪いようで、あまりいい印象がないのです。
 例えば初対面のトランスさんにこんな風に言われたことがあります。
「はじめまして」
「にくすさんはレズビアンですか?」
「は?」
「あ、ヘテロですか。それともバイ?」
「いや、え、なんで?」
「だってどう見ても純女さんだから、ビアンかヘテロだなって。うーん、見た感じはノンケっぽいっすよね」
「……あの、初対面の相手には誰でもそんな風に聞かれるんですか?」
「え、なんかまずいっすか?」
 なんだかわかりませんが、私の出会ったトランスさんの多くは悉く私を「女性である」と定義した上で話をせずにはいられないようでした。犬の種類を見分けるように、私を「女性」という種類の生き物なのだと定義して、それ以上の個性を認識する努力など放棄されているかのように感じました。
 男か女かトランスか、その他セクシュアルマイノリティをあらわす言葉か、とにかくどれかで名乗らなければ人間として認めてもらえないかのようでした。自分のありかたに定義づけをしたくないのだという私の言い分は理解の外なのか、「自分の性別に違和感ないなら、純女ってことっすよね」と流されてしまいました。
 私が女性の身体を持ち、女性らしい格好をしているのを殊更話題にして、
「いやあ、可愛いオンナノコって感じでいいっすよねえ」
 などと女性らしさを褒める言葉の裏に「性別を越境する努力もせずに、持って生まれた性別に疑問を持たずに過ごせるなんて、全く鈍感で幸せな人だ」というような軽蔑を覗かせるような人さえいました。
「持って生まれた性別に縛られることなく、違う性別を選ぼうとしている俺・私は特別な存在。あなたのような普通の人とは違うのだ」と言わんばかり。
 思い出すだに腹立たしいことです。
 私はこの性別も含めてこの身体を気に入っているのです。トランスの方が己の身体的性別を恥じるのも嫌うのも勝手ですが、それを他者にまで押し付けないで欲しいのです。
 自分の身体を嫌うか好くか、決めるのは私です。あなたではない。
 
 もちろん、トランスの方全てが上に書いたような言動をなさるわけではありません。
 わかっています。これはあくまで私怨です。それも極々一部の無礼な方々に対する。
 だけれどそういう怨みつらみがあるので、今回のプロジェクトに性同一性障害の方が参加していたという点に触れようとするとつい「トランス系の方は、他よりも男女を二分することにこだわりを持つ傾向があるような気がするのだけれど」などと余計な偏見を入れそうになってしまって、「いやこれは私怨だから」と消して、などとやっていると筆が鈍って仕方ないのです。

 イダ氏の日記から見て取った他者を見下す視線に、あのときトランスの方が私に向けた視線を重ねてしまったのかもしれません。

 そんな、この記事とは関係ない個人的怨恨。

・イダ氏の日記が相変わらず問題だらけに見えてしかたがないのです
 前の記事を書いた後も日記は更新されていて、それを読むとどうしても粗が目に付いて、何を書こうとしていても「あのプロジェクトはどうかと思うよ」という批判に終始してしまいそうになるのでもう私はあの日記を読まないほうがいいのかもしれません。
 多様な考え方を受け入れていこうと思っている人は「まともな意見」とそうでない意見を分けて「まともな方」とだけ信頼関係を築いていこうとはしないと思うし、他者のことを安易に名指しで「無知」と非難したりもしないと思うのですが、きっとそんな風に思うのは私がイダ氏の崇高な思想や信条を理解できないほどに無知で単純でまともでない人間だからなのでしょう。

・今更私が書くことなどあるのでしょうか
 しつこく大峰山(pokoponにっき)
 南郷力丸さんはこのBlogでこの前にも2つ、大峰山に関するエントリーを書かれています。2つめのエントリー
「女人禁制」が「物語」だと理解し、尊重するというのが唯一の解決策だと思う。
と書かれており、それはとても適切な解決策のように思えるので、なんだかもう付け足すことがないような気がしています。

 とりあえずはそんな感じのメモのみで。
 何か文章にできそうなところができたら、また記事にします。
 駄目かもしれないので、期待せずにいてくださると幸いです。
posted by にくす at 17:29| Comment(2) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月11日

美しさの問題

 大峰山の記事について、ちょっと違う視点から。
 そもそも私がこれを書こうと思ったきっかけは、この話に便乗しての的外れなジェンダーフリー批判、フェミニズム批判を多く見たからでした。
 「ジェンダーフリー」という言葉はまだ一般への浸透度が低い上に、なんだかもういっそ面白いくらいにあらぬ誤解と偏見をもって語られることの多い言葉です。
 この話題で「ジェンダーフリー」という言葉が「なんか嫌なもの」として認識されるようになってしまったら嫌だなあ、と思いました。
 この記事を書く前の時点で私が探した限りでは、この件に関しての記事はただ登山を批判するだけに終わっているものがほとんどのように見えました。(今はそうでもありませんが)
 うろうろするうち、「ジェンダーフリー論者はこの件についてどう考えているのかを述べるべきだ」という意見に当たりました。
 じゃあ、何か書いておいたほうがいいかな。
 自分は論者ではないから、多くの情報に目を通して分析して論じるなんてことはできそうもないけれど。ただの感情に基づいた文章でもなんでも、とにかく思ったことを書いておこう。
 そう思ったのです。

 そういう経緯で書いた記事ですので、初期の目的としては「下 ネットで憤る人々のこと」だけを書けば充分だったのです。
 しかし登山の呼びかけ人であるイダ氏のサイトを見て、それがあまりにひどい出来であると感じたので思わず自分までネットで憤る人と化して「上 山に登った人々のこと」を書いてしまいました。
 冷静に考えると割と本末転倒です。

 あの日記の何がひどいと感じたのでしょうか。
 見下したような物言いや文章のまずさについては、前の記事でも書いたので省きます。質問書の問題点に関しても、既に多くの方が触れておられるところです。
 だけれどそれより何より、私がぱっと見て真っ先にひどいと感じたのは日記のデザインでした。

 なにせ、背景が黒に銀河の壁紙です。なおかつ行間が詰まっていて文字が小さくびっしりで、読みにくいんです。しかも文章がだらだら長いんです。トップページから日記を選ぶと、古い日記から順に表示されて行くというサイトの構成も変です。なぜ最新の日記をわざわざ読みにくい所に置くのでしょうか。
 しかもタイトルが「ソウル・サーチング」です。けがれなきたましいです。スピリチュアルです。個人的にそういう言葉は好きではありません。何?新興宗教?ムー?
 そういう場所に、あまり巧くない文章で被害者意識に満ち満ちた言葉が延々ぐだぐだと綴られているのです。正直読むに堪えなくて、一応この件に関する文には目を通したものの、イダ氏の主張やその心境を好意的に斟酌するには至りませんでした。とても読み手の立場に立って作ったとは思えないサイトに対する生理的な嫌悪感が先に立ってしまいました。
 あの中にはもっと真剣に考えておくべき提言や、正当な主張もあったかもしれないのに。

 同じ内容でも、もしデザインがあんなのでなければ、もう少し我慢してあの文章を読むこともできたように思うのです。

 イダ氏のサイトがあんなのでさえなければ、この件を叩く人ももう少し少なかったのではないだろうかとさえ思うのです。

 それに比べれば「内田樹の研究室」の美しいこと!
 シンプルなデザイン、読みやすい文章、わかりやすい主張。
 さらりと読むことができました。言葉が素直に頭に入ってきました。共感しました。まったく正しいことを言われているように思えました。

 私は簡単な構造の生き物です。
 美しいものには惹かれます。そうでないものにはあまり興味がありません。
 あなたは違う意見をお持ちでしょうか?

 正しいことを言っていれば皆わかってくれるなんて、そんなのは幻想に過ぎません。
 正しい主張を下手な文章で綴って汚い紙に綴じても、それは中々読まれないし、伝わりません。
 ちょっと難のある主張でも、それが美しい文章で綴られて綺麗に装丁されていたら、手に取る人はいるでしょう。

 何を言うかはもちろん大事なことです。
 しかし、それをどのような言葉を使ってどのような形で言うかということは、時には主張の内容よりも重要なことだと思うのです。

 それは多分、このプロジェクトそのものについても言える話だと思います。
posted by にくす at 23:53| Comment(3) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月10日

大峰山の女人禁制とその周りの人々 要約

 大峰山の女人禁制とその周りの人々 上 山に登った人々のこと
 大峰山の女人禁制とその周りの人々 下 ネットで憤る人々のこと

 前の2記事がばかみたいに長くなってしまったので、要点だけかいつまんで置いておきます。

・大峰山に登ろうプロジェクトのやりかたには賛同できない
・だけれどそれを批判している意見には、的外れなものも多い気がする
・ジェンダーフリー批判に繋げるのはやめてほしいなあ

 短くするとそれはそれでばかみたいですね。

(11日、ちょっと「ネットで憤る人々のこと」の文をいじりました。書いているうちにどこをいじったのかわからなくなってしまったんですが……慌てて書いたものなので、またちょいちょい手直しするかもしれません)
posted by にくす at 17:37| Comment(0) | TrackBack(1) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大峰山の女人禁制とその周りの人々 下 ネットで憤る人々のこと

(前の記事はこちら

 女人禁制の大峰山に性同一性障害の男女らを含むグループが登ろうとしたニュースについて、関係ない場所にものすごい数のコメントが寄せられているのをいくつか見ました。

 たとえば「ジェンダーフリーについて扱ったことがある」というだけの、大峰山について記事を載せたわけではないブログの、当然ニュースとは全く関係ない記事に60件以上のコメントがついて大論争になっていたり。
 あるいは発起人が大学の非常勤講師であったことを理由にか、その大学に通っていてジェンダーの問題を取り上げている生徒のブログに匿名で質問状を送りつける人がいたり。
 このグループが告知を流した団体(別にこのグループを支援したわけでもない)のサイトの掲示板に批判的な書き込みが集中したり。
 このニュースを記事として紹介したブログに至っては、1000件以上のコメントが付けられて記事自体を削除、コメント欄も閉鎖という状況に陥っていました。
 イダ氏のサイトには掲示板がなく、日記にコメントを付けることもできないため、イダ氏への批判が関係ないところに飛び火しているのかもしれません。

 皆さん怒っておられます。
 言いたいことがたくさんあるのだと思います。
 だけれど、何に対して怒っておられるのでしょう。

 書き込みをしている人全員が大峰山近辺の住民で、「我々の信仰を侮辱するな!」と怒っているなら話は簡単です。
 しかし、そうではないように見えるのです。

 私はこのニュースとイダヒロユキ氏の日記を読んで、正直憤りを感じました。
 それは多分、自分が山岳信仰にある種の愛着を持っているからです。宗教のあり方には色々時代に合わない部分もありましょうが、そういう山が残っているということは少し嬉しいのです。
 かつて山岳信仰があったけれど、過疎で山を守る人がいなくなり、数々の伝承があったのにそれを引き継ぐ人もいなくなってしまい、社は崩れ石像は風化し、もはや住む人が死に絶えるのを待つだけの「終わってしまった村」を見たことがあります。
 大峰山はそうなりませんでした。
 山を守り抜き、世界遺産に選ばれるだけのものにした地元の人の努力に、尊敬の念を覚えました。
 それに敬意を払っているとは思えないイダ氏のやりかたに反感を覚えました。
 個人的な好みとして、「スピリチュアル」とかいう言葉を仰々しく使う人とは友達になれないだろうなあとも思いました。

 だけれどそれを関係ない場所に書いても仕方がありません。
「これからこういう登山をします」という告知が行われている時期なら、「やめなさい」ということにも意味があるでしょう。
 登山はもう終わっています。
 これから同じことをしようという人がいたら、そのときは止めればいいのだと思います。
 ですがコメントを集めているのは登山に関わっていない、そして登山を予定しているわけでもない人のブログや掲示板です。
 そういう場所に書き込んでいる人が何を求めているのか、よくわからないのです。

 「これだからジェンフリは困る」とか「フェミって最低」とか、そういう書き込みはもっとよくわかりません。
 ジェンダーフリー=フェミニズムではありませんし。見た限りでは「大峰山に登ろうプロジェクト」はジェンダーフリーやフェミニズムを掲げて行われたプロジェクトでもないみたいですし。
 別に大峰山を大切に思っていて義憤にかられたわけではない、ただ「ジェンダーフリー」「フェミニズム」といったものが嫌いで、それを叩きたい人がなんとなく集まってしまっているような気がします。

 そして、ただ気に喰わないものを叩くための意見に何か意味があるとも思えません。
 奇しくも、前の記事で引用した「性的禁忌について」(内田樹の研究室)の中にはこんな文章があります。
「啓蒙的」であるためには、つねに「陋習」に代わる、より汎用性の高い、より実効性のある別の「擬制」を提示しなければならないと思うからである。
 大峰山に登ろうプロジェクトを批判するなら、ついでに「では社会に性の多様性を考えてもらうきっかけとしてより適切なパフォーマンスとはどのようなものであったか」ということも考えていただけないかなあ、と思うのです。
 せっかくこれだけ自分の考えを語る人がいるのですから、そこから何か皆が幸せになれるようなことに結びつく運動を生み出すこともできるのではないでしょうか。
 寄せられた1000件のコメントの中には、そういう建設的な素晴らしい意見もあったのかなあと思います。

 「信仰が大事だ、伝統を守れ」というなら、過疎の山に移り住んで伝承を保存し信仰のありかたを学び、それらが絶えぬように活動するのもいいでしょう。私にはできませんでしたが。
 トラックバックをいただいた「大峰山「炎上」について」(性・宗教・メディア・倫理)さんの記事には
この方々の熱意によって、大峰山から観光客など不埒な存在はおいはらっていただけるのでしょう。
とありました。むろん皮肉なのでしょうが、実際に信仰や伝統の大事さを叫ぶ人々の手で「観光地化せずに大峰山を守り続けるぞ運動」みたいなものが(現地の人から広く同意の上で)できるのなら、それはそれで一つの成果だと思います。がんばってください。

 「ジェンダーフリー」が嫌なら、「フェミニズム」が気に喰わないなら、そういうものを大切にしている人々にもっと素晴らしいやりかたを示して欲しいように思うのです。というか、そもそもイダ氏はどうしてああいうプロジェクトを呼びかけたのか、あのやりかたは本当に「ジェンダーフリー」や「フェミニズム」を代表するものであったのかどうか、考えて欲しいのです。

 私は、性の多様性を認める「ジェンダーフリー」という考え方でだいぶ楽になりました。
 同性を好きになることがあって、自分の性別がよくわからなくて、既存の性別にうまく収まれない気がしていました。そういう話を笑い飛ばさず異常と見做さず普通に聞いてくれたのは、ジェンダーフリーを冠する学生サークルの人々でした。
 ここでならのびのびと話せる。そう思いました。

 「ジェンダーフリー」は、自分の性のありかたを押し付けるような考え方ではなく、他者の性のありかたを、その多様性を、認めていこうという考え方だと思っています。
 そしてそれを実現するのに、他の人が大切にしているものを踏みにじる必要などないと思うのです。
 あなたを傷つけたいわけではないのです。
 ただ、もうすこしだけ、穏やかに生きたいのです。
 同性を好きだと言っても、あなたは友達でいてくれますか?
 好きな人に好きだと言うのは、悪い事ですか?
 そこがジェンダーフリーな場所なら、そういうことで疎外されずに済むのです。
(もちろん好きな人に「好みじゃない」という理由で拒絶されることはありますが、それは単に私がもてない子だというだけのこと。思いを伝えて「うわあ変態だ」と苛められるよりは、普通に振られる方が遥かにましです)

 大峰山に登ろうプロジェクトには、色々問題点もあったと思います。
 しかし、それをセクシュアルマイノリティやジェンダーフリーやフェミニズムなどの「なんか気に入らないもの」を叩く材料にはしてほしくないなあと思うのです。
 怒っている人々が、本当に大峰山を大切にする現地の人の気持ちを思いやっているというのなら、同じようにジェンダーフリーを大切なことだと考える人もいるのだということもちょっと考えてもらえないかなあと思うのです。

 いささか長くなりました。
 最後まで読んでくださったあなたに感謝します。

 まだ余力があるよ、というあなたには参考リンクをどうぞ。「ジェンダーフリーとは」
posted by にくす at 17:06| Comment(2) | TrackBack(2) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大峰山の女人禁制とその周りの人々 上 山に登った人々のこと

 こんなニュースがありました。
説得応じ大峰登山中止 性同一性障害の男女ら

 女人禁制を守る修験道の根本道場、奈良県天川村の大峰山(山上ケ岳)登山を計画した性同一性障害の男女らを含むグループは3日、禁制維持の立場から登山しないよう求めた地元住民の説得に応じ、登山口の手前で計画を中止した。

 グループは、立命館大非常勤講師の伊田広行(いだ・ひろゆき)さんらの呼び掛けに応じた性同一性障害の人や、女人禁制に反対する女性を含む約30人。

 登山口の「女人結界」門で地元住民ら約50人が待っており、午前10時に到着したグループに桝谷源逸(ますたに・げんいち)洞川区長が「登山は遠慮してほしい」と申し入れた。涙ぐんで訴える地元の女性もいた。

 グループ側は「何を基準に男女を分けるのか」「禁制維持をどうやって決めたのか」など疑問をぶつけたが議論は平行線をたどり、約1時間後、引き続き両者が話し合いの場を持つことで一致。グループは解散した。

 参加した滋賀県彦根市の女性公務員(32)は、「女人禁制に賛成する地元の女性が多いのに驚いた。今日は納得できる説明がなく残念。お互いにもっと本音で思いを出し合った方がいい」と話した。(共同)
産経新聞社 Sankei Webより)
 私はジェンダーフリーを掲げるサークルに参加しています。今年はWeb担当として、微力ながら運営に携わる立場にもなりました。
 性の多様性を認めることは大切だと思いますし、それを社会に訴えたいと思うひとの気持ちもわかるつもりです。

 その一方で、学生時代には日本の民俗学、修験道や漂泊の芸能者や女性の宗教といったものの研究を行ってきました。偽経である血盆経を根拠に女性を穢れとするような思想が今日まで続いているなら嫌ですが、ケガレというのは気枯れ……この話は長くなる上、本題でもないので省略します。
 ともあれ山の宗教はすべて女性を悪いものとして排除してきたわけではありませんし、女性を救うために機能してきたものだってあります。学んだことから考えるに、「女人禁制」という制度は「男女差別だからなくせばいい」というような単純なものではないと思うのです。
 性の多様性を認めていくべきだという考え方に立つと、男女を二分してそれ以外のあり方を想定していない宗教は時代にそぐわないような気もします。しかし、だからといっていきなり「じゃあ、なんでもありでいいや」ということにしてしまうのはいかにも乱暴です。
 聖なるものというのは、そこにそれがあると信じる人がいなければ発生しません。いくつかの禁忌を置くことで、はじめてその場所は聖なる場所として機能します。
 山の神聖性、信仰を大事にしている人の気持ちを守って、なおかつ誰もが差別されていると感じないような宗教のありかたを考えるのは、とても難しいことだと思います。

 私は、今回大峰山登山を計画した人々のやりかたには賛同することができません。
 性の多様性を訴えるためには、もっと穏やかなやりかたもあったと思います。
 大峰山登山を計画した人々の主張より、どちらかといえば「性的禁忌について」(内田樹の研究室)の中にある
大峰山の入山希望者たちが、修験道に志し、大峰山の聖性につよく惹かれているにもかかわらず、その性的条件ゆえに入山を拒否されているのだとしたら、この禁忌は修験道の本旨に照らして懐疑せられてよい。
けれども、この入山希望者たちがこの行動をつうじて大峰山をいっそう聖化することを望んでいるということは、この記事からは伝わってこない。
そうだとすると、この人たちは、自分たちの奉じる社会理論の正しさを宣言することの方を、大峰山の共同体の信仰を否定することよりも優先させているということになる。
という言葉の方が正当性のあるもののように感じられます。呼びかけを行ったイダヒロユキ氏の日記を読む限りでは、少なくともイダ氏は山を信仰する人々の気持ちを大切にしているとは思えません。
 サイトに挙がっている全ての文を読んではいないのですが、イダ氏は無宗教ということで宗教的なもの、信仰というもの全般に否定的な考え方をされているように見えます。それはそれで一つの考え方でしょうが、だから人が大切にしている信仰を軽んじていいということにはなりません。

 イダヒロユキ氏の日記の感想ですが、正直、読むのが辛かったです。
 考え方の良し悪し以前に、文章が洗練されていません。さらに、
自信満々に非難・批判をする人には、やはり、先ずは『「女人禁制」Q&A』を読んでよねといいたいですね。ある程度のことさえ知らずに言われている意見が多いので、知っていただいてから意見をいっていただければ、もう少し冷静に、相互尊敬をもって話せるのではないでしょうか。
(中略)
まともな人には伝わるという確信があります。
というような、上からものを言うような言い回しがあまりに多いのです。
「私は絶対正しい、それが伝わらないのはあなたがたが無知で、まともな人ではないからだ」というようなものの言い方をして、相手が友好的に話し合う気になれると思っておられるのでしょうか。
 日記に掲載されている質問書にしてもそうです。
 この方は本当に大峰山の信仰のあり方についてきちんと学ばれたのでしょうか。まさか『「女人禁制」Q&A』一冊を読んで、「女人禁制は女性差別!よくない!」と思い込まれたわけではないと思いたいのですが……信仰を持っておられる方を前にあのような質問書を提出して、好意的に迎えられると思っておられたのでしょうか。自分が相手の信仰に敬意を払っていないのに、相手からは自分の思想が敬意を持って迎えられるべきだと思っておられたのでしょうか。
 日記にはこんな文章がありました。
相手にひどい人たちだというレッテルを貼り、何も聞かずに言いたいことだけ言って去っていくという姿勢にこそ、この「女人禁制」をめぐる問題の問題点があります。「女人禁制の大峰山を守ってきた地元の信仰や心情を無視せず、どうか理解ある行動をしてほしい」といいつつ、相手側を無視し、相手を理解しようとはしない。そしてそのことに問題を感じていない。そういう対応だったのです。
 この方の姿勢もまさに「相手にひどい人たちだというレッテルを貼り、何も聞かずに言いたいことだけ言って去ってい」き、「相手側を無視し、相手を理解しようとはしない。そしてそのことに問題を感じていない」対応であるように見えます。そういう姿勢をとりながら(そしてそれをおそらくは自覚しないまま)
残念です。そして悲しいです。この世は、暴力だらけです。
と言える感性が理解できません。

 昔は信仰の対象であったけれど、いつのまにかそういう考えを持つ人がいなくなってしまった山はたくさんあります。
 大峰山はそうではありません。今までその土地の人に愛され、信仰の対象とされてきた、幸せな山なのだと思います。
 その気持ちは大切にすべきだと思うのです。
 問題提起をすること自体は悪いことではないと思います。ですがそれは信仰のありかたやその歴史に一定の敬意を払って行われるべきですし、そうしなければきっと何かを変えることなんてできないと思うのです。

 おまけ。この話に興味を持たれた方に。
 イダ氏は『「女人禁制」Q&A』を読んでから反論して欲しい、と仰っていますが、書店や図書館に行くのは結構手間だなあという方もおられることと思います。
 そんな場合はこのサイト「シリーズ女人禁制 その2」がわかりやすく大峰山の女人禁制の概要を紹介しているので、とりあえずここを読んでおくのも手だと思います。
 シリーズ1では『「女人禁制」Q&A』の作者、源淳子氏の話を読むこともできます。

(14日追記)行者さんの立場で書かれた記事をみつけました。
「ふと目にした記事について思うこと」(ほらふきにっき)
posted by にくす at 17:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

大峰山のこと

 女人禁制の大峰山に性同一性障害の団体が入山を求めた件について。
 この団体のやりかたには賛同できませんし、気持ちとしてはこの記事で仰っていることに概ね同意なのですが、しかしその周辺のジェンダーに関して扱ったサイトなどにもこの話題が飛び火して炎上しているような状態がいいとも到底思えず、あたりさわりなく生きていきたいなら触れない方がいい話題のような気がするのですがしかし書いておきたいことも色々あるのでなんとかまとめようとしたのですが今日はまとまりませんでした。という報告だけ。
 まとまったらまた書きます。

「議論はいやよ。よく男の人は議論だけなさるのね、面白そうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思いますわ」
posted by にくす at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月07日

早めに知りたかった国民年金の話

 大学を卒業した友人に聞きまわってみたら、学生の時の国民年金を追納していない人が結構多いということがわかりました。

 学生納付特例期間の手続きをしておけば、学生のうちは国民年金の支払いを後回しにすることができます。
 しかし、これはあくまで支払いを先送りにするだけの制度。
 年金を満額受け取るためには、在学中の年金も後からきちんと納めておく必要があります。
 今の国民年金は月々13,580円ですから、1年で162,960円。18歳から4年間大学に通ったとしたら、追納の必要があるのはだいたい50万ちょっとくらいの金額です。
 卒業したての人間がまとめて支払うには、ちょっと辛い額のように思います。

 それでもできるだけ早めに払っておいたほうがいいと思うそのわけは加算額の存在。
 学生納付特例期間の申請をしてから3年以上経つと、「経過期間に応じた加算額」、つまり利子がついてしまうのです。
 社会保険庁のページを見ると、申請後2年度めまでに追納する場合の月額は13,300円。
 これを10年度めまで放っておくと、追納する額は月額16,310円まで上がります。
(これは平成17年度中に追納する場合の追納額なので、それ以降の加算額はさらに増すと思います)

 私は職業が安定していないので、今後収入が増える可能性が判然としません。
 なのであまり沢山の加算額が付く前に貯金を使って追納を済ませてしまいました。そのほうが後々楽だろうと考えたのです。

 年金は全額もらう気でいるけれど学生時代の分をまだ納めていなくて、なおかつ手元に動かせるお金がある方は早めに追納を済ませておいたほうがいいと思います。3月を区切りに加算額がつくので、できればそれまでに。(1年分ずつ分けて払うこともできます)
 もしあなたがまだ学生なら、今のうちにちょっとそれを見越して貯金をしておくと数年後の支払いが楽かもしれません。

 学生のうちにこれらのことを知っていたらもう少し計画的にお金が使えたのになあ、と思ったお話でした。
posted by にくす at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

美人妻の応援対決

 明日は選挙です。
 昨日、朝のワイドショーで徳島3区の紹介をしていました。
 候補者ではなくその妻の紹介です。

 一人の候補者夫人は女優、一人の候補者の婚約者も女優級の美人。
 そんな美人妻二人が応援対決、というような趣旨の特集でした。選挙にも色々な見方があるものです。
 婚約者の女性がアナウンサーに
「あら?指輪はしていらっしゃらないんですね」とか聞かれ、
「あ、激しい選挙活動で傷が付くので外しているんです……実は時計も壊しちゃって」とか答えていました。選挙活動って大変なんですね。

 このように候補者の配偶者にもスポットが当てられるとなると、女性候補者の配偶者のことも気にかかります。
 今回の選挙は女性候補が多いと評判ですが、その配偶者もやはり妻の応援に奔走しているのでしょうか。
 その見た目が良い場合、「イケメン夫の応援対決」というような特集がテレビで放映されていたりするのでしょうか。私はワイドショーをあまり見ないので、そういう特集が組まれているかどうかを知りません。

 この時間帯家にいることが多い母に聞いてみました。
「ねえ、候補者の夫が応援をするとか、『イケメン夫の応援対決』とか、そういう特集はないの?」
「さあ、見たことないわねえ」
 そうなのか、つまらないなあと思っていますと、母はさらに一言。
「そういうのがやりたいなら、あなた試しにやってみたら?」

 成程。
 まず政治について学び、政治家になるための基礎を築きつつテレビが注目するほどに見目麗しく、なおかつ選挙活動を熱心に応援してくれるような婿を取り、しかるのちに立候補すればいいだけの話だったのですね。
 では差し当たって市会議員あたりから目指していくことにして、早速次の選挙までに色々と準備を、と考えかけてはたと気付きました。

 私は愛想が悪いのです。そして人見知りをするのです。
 そんな人間にとって政治の世界は極めて不適切な就職先。
 諦めました。

 でも見てみたいんですがねえ、「イケメン夫の応援対決」。可愛らしい夫にインタビューするアナウンサー。
「あら?指輪はしていらっしゃらないんですね」
 はにかみながら答える夫。
「あ、激しい選挙活動で傷が付くので外しているんです……実は時計も壊しちゃって」
 インタビュー中も、通行人に妻への投票のお願いを欠かさない夫。
「今度立候補した**の夫です!**も頑張っておりますので、どうぞよろしくお願いします!」
 事務所で「お婿さん、綺麗な方ですね」と言われて照れる候補者。

 そうでなければ「ゲイ候補者をイケメンパートナーが応援」でもいいし、「ビアン候補者を美人パートナーが応援」というのも是非見てみたい。「男か女かよくわからない候補者をよくわからないけれど綺麗な何かが応援」というのも素敵だと思います。
 ですが残念ながら今回の選挙で、私の住む地域にそういう候補者はいませんでした。
 これだけ色々な方が立候補されているのですから、そういう応援をしている方もきっとどこかにおられていいはずと思うのですが。

 次回の選挙ではもっと多彩な応援が見られることを期待しましょう。
posted by にくす at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月07日

仁和寺の法師

 テレビでこんなニュースを見て、びっくりしました。
仁和寺放火容疑で修行僧逮捕
6月の連続不審火

 世界遺産の真言宗御室派本山・仁和寺(京都市右京区)の修行僧寄宿舎「仁和密教学院」で6月中旬に発生した連続不審火事件で、右京署は7日、現住建造物放火の疑いで、同宿舎に住む修行僧の櫻又英憲容疑者(26)を逮捕した。調べに対し櫻又容疑者は「火をつけていない」と容疑を否認しているという。

 調べでは、櫻又容疑者は6月19日午後零時20分ごろ、寄宿舎内の修行僧(24)の部屋の押し入れに放火し、押し入れの板壁の一部やバッグなどを焼失させた疑い。

 同署によると、寄宿舎では修行僧11人が住み込みで生活。櫻又容疑者は4月から寄宿舎に入っていた、という。
 寄宿舎では6月18日未明にも、空き室の畳や段ボール箱が焼ける不審火があり、同署が関連を調べている。
 (京都新聞電子版より)
 僧侶が放火するなら普通は『金閣寺』ではないのでしょうか。
 「放火=金閣寺」という定番の構図にあえて仁和寺を持ち込むとは。あるいはこれが今流行のトリビュートという奴であろうか、少しのことにも先達はあらまほしきものなりなのかと、思わず唸ってしまいました。

 しかしどうしてこんなことに。

 テレビでは「修行僧同士のトラブルはなかったかと調べている」と言っていましたが、何か余程ひどいもめごとでもあったのでしょうか。
 ふざけて足鼎を被ってみたら抜けなくなって大怪我をしたとか。
 それが原因で「足鼎の僧正」というあだなを付けられたとか。
 それがどうにも腹に据えかねて、ついには放火に及んでしまったとか。
 それで今度は皆から「放火の僧正」と呼ばれるようになってしまうとか。
 途中から仁和寺の法師の話ではなくなってしまいましたが、しかしいかにもありそうな話です。
 というかなんといっても仁和寺なのですから、ここは是非ともそういう経緯であって欲しいと

 不謹慎ですね。

 私は仁和寺に余程偏見があるようです。
 創作と現実を混同するのもほどほどに。
posted by にくす at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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