2008年01月09日

ぎりぎりの速さで

 古川日出男『ハル、ハル、ハル』を読みました。

 今年読んだ中で――といってもまだ精々十数冊のうちの、ですが――1、2を争う「なんだか気になった一冊」になりました。

 読んでいる間と読了直後は特に強烈な印象を受けることもなく過ぎました。
 その日の夜になって、眠る前に唐突に走るか踊るかしなければならないと思いました。
 正しい絶望について考えました。
 速さこそがモラルなのだという一節に共感しました。

 数日後、しかしながら速さのみを見続けることは誠実なことだろうかと疑問を覚えました。

 手放しでお勧めの作品とは言いがたいのですが、確実に自分の中の何かを揺らしうる一冊でした。
 妙な引っかかりを、すっと消費できないものを感じました。

 それは大事なことだと思います。
posted by にくす at 15:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月07日

ユダの福音書

 今月28日発売の『ナショナルジオグラフィック日本版』に、ユダの福音書が掲載されるそうです。

 ユダの福音書に関しては、こちらの記事が参考になります。
 イスカリオテのユダがローマの官憲にイエスを引き渡したのは、裏切りではなくイエスの指示に従ったからであった、という内容が記されている模様。
 例によって偽書の可能性が濃そうなおはなしですが、読み物としては面白そうだと思います。

 信仰は持っていませんが、なんだかんだで聖書は愛読書となっています。

 12使徒のなかでも、ユダは思い入れのある人物です。
 マタイ受難曲に描かれている苦悩の様子や、マタイによる福音書にある裏切りのくだりが、物語として魅力的なものであると感じたからかもしれません。
 イエスが捕らえられたとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまっているのですから、ユダだけを殊更に裏切り者扱いするのもなんだか公正でない気がします。同じ章でのペトロの行動なども、結構ひどいと思うのですが。

 聖書を開いてみて、マタイ受難曲と聖書のマタイによる福音書では、おなじ場面でも台詞が異なるということに気付きました。
 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
 これに対してマタイ受難曲でイエスが返す台詞はこちら。

 Mein Freund,warum bist du kommen?
(友よ、なぜ来たのか)

 それが、聖書ではこうなっています。

 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。

 どちらも嘘なのかもしれません。
 どちらかはほんとうの言葉であったのかもしれません。
 どちらにしてもこれらの物語を読む限り、イエスは決してユダを恨んでも憎んでもいなかったような気がするのです。
 「ユダの福音書」がどういう経緯で作成されたものであったとしても、私が抱いたこの印象は覆らないように思います。
 マタイによる福音書、第26章46節。最後の晩餐を終えたイエスが、捕らえられる直前に発した言葉。

 「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

 わかっていてイエスはユダから逃げることなく、その接吻を受けたのです。
 裏切りであったとしても、このひとはそれを受け入れていたのです。
 それだけで充分なのではないか、と思います。

 今更何かを付け加えなくとも、これはもう充分に完成したおはなしのように思えるのです。
posted by にくす at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月23日

締め上げ機への憧憬

 オリヴァー=サックス『火星の人類学者』に、テンプル=グランディンという人物が紹介されています。

 動物行動学を学んで博士号を取得し、コロラド州大学で教鞭を執りつつ酪農施設の設計を手がけて事業を経営しているという、高い能力を持つ自閉症患者です。
 彼女はその病の故に、他者の感情に共感する事ができません。怒りや喜びといった単純な感情表現は理解できますが、それ以上の複雑な感情、皮肉や比喩、冗談といったものがわからないのだそうです。
 そのために、他者との関係性を築くのが難しいのだといいます。
 恋をしたことがあるだろうか。
 いいえ、と彼女は答えた。自分は独身で、一度もデイトをしたことがない。そうしたつきあいは複雑すぎて手に負えないし、当惑するばかりだ。彼女は聞いた言葉がなにを意味するのか、どんな含意があるのか、なにを求められ、期待されているのか、どうしても理解できない。そんなとき、ひとがどういうつもりなのか、なにを仮定し、あるいは前提としているのか、どんな意図をもっているのか、わからなくなる。これは自閉症に共通したことで、そのために性的な感情をもってはいても、デイトや性的関係があまりうまくいかないのだと彼女は言った。
 だが、実際にはデイトや人間関係だけの問題ではなかった。「わたしは恋に落ちたことがありません」と彼女は言った。「恋に落ちて、有頂天になるというのがどんなことか、わからないのです」
 そんな彼女は「締め上げ機」というものを製作し、それを愛用しています。
 その装置には、分厚い柔らかなパッドにくるまれた幅九十センチ、長さ百二十センチほどの重い木の板が二枚、斜めについていた。二枚はV字型になるように細長い底の部分が蝶番でとめられて、ひとの身体がおさまる樋になっている。いっぽうのはしに複雑なコントロールボックスがあり、頑丈なチューブで戸棚のなかのべつの機械につながっていた。テンプルはそちらの機械も見せてくれた。「産業用のコンプレッサーです。タイヤに空気を入れるのに使うのと同じなんです」
「それで、これは何に使うのですか?」
「肩から膝まで、しっかりと心地よい圧力を与えてくれるのです」

 小さいころ、彼女は抱きしめてもらいたくてたまらなかったが、同時に、ひととの接触が怖かった。

 それで――当時、まだ五歳になったばかりだったが――力強く、だが優しく抱きしめてくれて、しかも自分が完全にコントロールできる魔法の機械を夢見るようになった。

 実際的な彼女は、やがて夢を実現した。初期の機械は原始的で、ぐあいが悪かったり、故障したりしたが、やがて心地よくて調節がよくきき、思いのままの「抱っこ」を実現してくれる完全な機械ができあがった。彼女の締め上げ機は期待どおりの効果を上げた。子供のころから夢見ていた平安と喜びを与えてくれたのだ。
 自作の奇妙で柔らかな機械に包まれて、うっとりと安らぎを得るひとのいる部屋を想像しました。
 それはとても簡素で美しく、幸せな光景のように思えました。
 「締め上げ機」とは、なんて素敵な機械だろうと憧れました。

 そこで先日友人にこの話をして、自分がいかにこの機械に惹かれているかを訴えたのです。
「素晴らしい機械だと思わない?私もひとつ造って部屋に置きたいくらいなんだけれど、この国の住宅事情では難しいかな」
「そこまでしなくても、やわらかいものが欲しいなら布団にくるまればいいじゃない」
「まあ、お布団の柔らかさと包容力は認めるけれど、求めるものとはちょっと違うかな。圧力が重要なのよ」
「じゃあ、重石を乗せるとか」
「おもし。自分の上に土嚢を積むとか?」
「『重いものの下に埋まっている。大きな石などをめくると出てくる』……妖怪のようだね。『妖怪・隙間好き』?」
「むしろその解説は虫の生態に近いような」

 残念ながら、私のときめきを理解してもらうことはできませんでした。

 本当は、締め上げ機そのものが欲しい訳ではないのです。
 私が欲しいのは、締め上げ機の中で安定できる気持ちなのです。
 ひとに抱きしめてもらえなくとも、ひとから好いてもらえなくとも、自分ひとりだけの力で必要な圧力を与えてくれる装置を造り、それで何の不自由もなく自分は幸福であると、そう言い切れる精神なのです。

 私は自閉症ではありません。
 だけれど、他者の気持ちを推し量る能力に欠けています。
 自分以外の人が何を好み、何を嫌い、どのような法則に基づいて行動しているのかいまひとつ理解できず、ときに困惑するのです。

 何か私の情緒には、重大な欠陥があるような気がするのです。
 自分がまともな人間だとは、どうしても思えないのです。
 だから私には生涯真っ当で親密な人間関係を築くことなどできないのかもしれないと怯えていて、そうして半ば諦めています。
 私に対して愛情を抱き、尚且つそれを持続させることができるひとが現れる。そんな奇跡のような可能性を本気で信じる気には到底、なれないのです。

 なのに私はひとを好きになります。
 誰かに憧れて焦がれて、近付きはするけれど相手の気持ちがわからなくて、巧く関係性を築くことができなくて。徒に身を焦がして、相手を困惑させて。
 どうしてだか、そうせずにはいられないのです。
 自分の裡にある愛情は些か多過ぎるので、私はそれに翻弄されてばかりいます。
 だけれどこの感情を切り離して生きていくこともできません。
 こういった感情をなくせばきっと私は私でなくなってしまいます。自分という人間からは生涯逃れられない以上、自身のありかたを、その異常性を欠陥をすべての瑕疵を正しく認識し、感情を飼い馴らしながらどうにかやっていくよりないのでしょう。
 それはすこし、厄介なことです。

 だから私はグランディン氏のありかたに憧れます。「わたしの人生には欠けているものがある」と語る彼女の人生に。
 彼女の方が絶対に私より幸せであるとは思いません。
 自分のありかたをそれなりに肯定もしています。
 だけれどそれでも、憧れるのです。
 それは自分にはない精神のありかたですから。

 孤独を感じないひとを前にしたときに突きつけられるのは、自分の裡にある孤独です。
 彼女はある意味では愛情に憧れているが、他人に情熱を感じるというのがどういうものか想像できない。
 あなたに抱き締めていただきたいと願いさえしなければ、私の人生はもう少し簡単なものになっていたように思います。
 しかし機械の圧力だけで平安を得ることが可能なありかたを選択することはもはや叶いません。
 私は既に、他者に対して執着心を抱くというのがどのようなことなのかを知ってしまいました。
 それをなかったことにはできません。

 故に私は他者に対する膨大な愛情をただただ持て余し、すこし途方に暮れるのです。
posted by にくす at 16:33| Comment(4) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月30日

カーミラの廃刊

 2005年12月21日発売の第10号を以って、雑誌『カーミラ』が廃刊になるそうです。

 休刊ではなく、きっぱり廃刊だと告知されていてなんだか残念な気持ちです。アニースが実質休刊中の今、殆ど唯一のビアン雑誌だったというのに。どうにもこの手の雑誌は短命に終わる傾向がありますね。
 まあ、私にはどうも刺激が強すぎる内容でしたので、購入したこともちゃんと読んだこともなかったのですが。勿論これはノンケであるところの幼馴染さんの視線を意識した発言なわけですが。そんな目で見ないでください。

 読者でこそなかったものの、この雑誌にはちょっとした思い出があります。
 創刊前、ポット出版の方とメールのやり取りをする機会がありまして。お休みの時期に
「折角ですし一度お会いしましょうか」
 ということになり、新宿2丁目で一緒に飲みました。
 楽しかったです。

 その際、
「出版界には女性向けのエロ本が不足していると思うんだ」
 というようなお話をされたので
「そうですね、でもどんな本なら需要があるんでしょう?私は男の人の裸が沢山載っているような雑誌が出版されても別に嬉しくないです」
 と回答。
「確かになあ」
「可愛い女の子が沢山載っている本なら嬉しいですが」
「それだ!そういえば今、ビアン向けのエロ本ってないよな」
「強いて言うなら『アニース』とかですかね」
「あれはあれでいい雑誌だけど、お洒落だし真面目な特集も組んでるし『エロ本』じゃないだろ。そういうのじゃなくてもっと実用的な、エロに特化した雑誌があったら、欲しくない?」
「興味はあります」
「よし、じゃあビアン向けのエロ雑誌を作るか」

 とまあ、こんな会話がありまして。
 お酒の席の話ということもありあまり真に受けてはいなかったのですが、どうやらあの方は本気だったらしく。
 後日本当に『カーミラ』が出版されてしまいました。

 めくってみると確かにきちんとふしだらな、正しく女子向けエロ本と呼ぶに相応しい出来で感心したものです。「とにかくモテたい!女の子と付き合いたい!」なんてタイトルの特集、他の雑誌では絶対に組まなかったものではないでしょうか。
 女子向けだけれど変に夢見がちな方向に行くのではなく、真面目に下世話にいやらしさを追求していたというか。
 ああいう雑誌はこれまでになかったものだと思いますし、これからも現れるかどうか。
 廃刊は本当に惜しまれます。

 いえ、私は読んでいませんでしたよ!(悪あがき)
posted by にくす at 17:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月08日

読書の量

 10月27日からはじまった読書週間も、いよいよ明日で最終日です。

 それに関連して、大学生協で読書マラソンなる企画が行われているのを知りました。
 大学の4年間で本を100冊読むことを目指す企画です。読んだ本の簡単な感想をカードに記入、提出してスタンプをもらい、スタンプが集まると記念品がもらえるのだとか。
 楽しそうな企画です。

 それにしても、4年間で100冊という目標値はいかにも少ないように思えます。去年半ばからつけていた読んだ本のメモによれば、私が1年で読んだ本は578冊でした。(戯曲も含む。実用書、漫画、雑誌、絵本は除く。また上下分冊などになっている本は、合わせて1冊と数える)
 それを4年間で100冊に抑えろというのは正直、無理です。いや、別に読書を制限する企画ではないのでしょうが。

 ともあれものは考えようです。
 私のこの読書速度をもってすれば、100冊の本の感想を書くなど造作もないこと。これを機に読書マラソンに参加して、記念品獲得を目指してみようかと考えました。

 ですが参加するには、感想カードを提出しなければなりません。感想カードは店内に掲示されることもあるそうです。
 これは恥ずかしい。
 読書傾向を他人に知られてしまう、というのは人生において最も恥ずかしいことの一つだと思います。
 しかも私はどちらかというと情緒が不自由な子。片山恭一よりおかゆまさきの文章に感動する感性の持ち主です。
 そんな趣味を赤裸々に公開したくはありません。秘めて放たじをとめごころです。

 更に言うなら、私の場合は読書量が多いのも恥ずかしいことのように思えます。
 読んだ本の内容をきちんと理解、記憶、吸収できる人なら読書量を誇ることもできるのかもしれませんが、いかんせん私は物覚えが悪いのです。読んだ本の内容の全ては記憶しておらず、得た知識を自分の教養に充分反映することもできていません。
 よって下手に読書内容を公開すると
「その割にものを知らないなあ」という感想を引き出し、ひいては己の記憶力の残念さを露呈することとなりかねません。それはあまりに危険な行為。

 ……かしこいひとになれるまで、本はできるだけこっそり読もうと思います。
posted by にくす at 17:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月23日

書名での性的嫌がらせ

 先日、バスの中で『ガールズセックス』(小田洋美ほか)を読んでいたら、隣のおじさんにぎょっとされました。
 どうやら書名に驚かれたようです。

 そういえば、電車内で裸の写真が載った週刊誌などを広げるのは性的嫌がらせにあたるという話を聞いたことがあります。
 してみると、私の行動もおじさんに対する性的嫌がらせになってしまうのでしょうか。
 これは由々しき問題です。

 友人と会った際に、そのことを相談してみたところ
「うーん、でもそのバスの中に『ガールズセックス』を読んでいるあなたを見ることで不快感を覚える人がいたとは思えないし、いいんじゃない?」
 という回答をいただきました。なるほど。

 では人に不快感を与える、もしくは人を傷つける可能性のある書名とはどのようなものでしょうかと考えてみました。

『もてない男』(小谷野敦)
 もてない男性にとってはちょっと嫌な題かもしれません。

『日本の童貞』(渋谷知美)
 童貞であること、もしくは童貞でないことを気にしている人は傷つくかもしれません。

『ブスのくせに!』(姫野カオルコ)
 外見を気にしている方は傷つくかもしれません。が、私自身がどちらかというと残念な外見の持ち主なので、自虐に見える可能性もあります。

『OK?ひきこもりOK!』(斎藤環)
 長年ひきこもっていたけれど今日ようやく外に出る決心をして、覚悟を決めて電車に乗ってみたら目の前のひとがこれを読んでいた。という状況だったら嫌だろうなと思います。
 更に追い討ちでこんな本を見てしまったらさぞかし嫌でしょう。
『もうおうちへかえりましょう』(穂村弘)

『自殺されちゃった僕』(吉永嘉明)
 自殺されちゃったひとには刺さる書名です。自殺を考えている人には考え直していただきたい。

『お婆ちゃん!それ偶然だろうけどリーゼントになってるよ!』(宮藤官九郎)
 ちょっと独創的なパーマをかけてしまったお婆さんを車内に見つけた場合のみ、そっと表紙を隠す配慮が必要かもしれません。

『武士道とエロス』(氏家幹人)
 武士に対してはセクハラかも。

『帯をとくフクスケ』(荒俣宏)
 フクスケが性的不快感を覚える可能性は否定できません。

『裸のサル』(デズモンド=モリス)
 サルが乗っている電車では読まないほうがいいかも。

『蹴りたい田中』(田中啓文)
 田中さんに要らぬ危機感を覚えさせてしまう可能性があります。

 考えているうちにだんだんどうでもよくなってきました。
 適度な配慮は必要でしょうが、あまり神経質になる必要はないのかもしれません。
posted by にくす at 18:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月21日

恋するということの罪悪

 柘榴を食べながら考えた話。

 好きな相手のことを大事にできる人、というのは存在するのでしょうか。

 夏目漱石の『こころ』に出てくる先生は、こう言います。
「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」
 こんな風に言うのはきっと、この先生がお嬢さんに対して
「ほとんど信仰に近い愛をもっていた」からであり、「本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じて」いたからだと思うのです。
(「愛」と「恋」は使い分けるべき単語なのかもしれませんが、ここでその区別は措くこととします)

 信仰心というのは罪深いものだと思います。
 神を信じることによって弟を殺したり子供を生贄に捧げたり異教徒を虐殺したりという行動を平気で取れるようになってしまうのですから、こんなに恐ろしいものはありません。
 信じる神を見つけてしまった人はその思いが純粋であればあるほど、それ以外のことを簡単に犠牲にできるようになってしまうのだと思います。
 信仰のゆえに自分が傷ついても他人が傷ついても、それは仕方のないことなのです。信仰を失うことに比べれば、なにもかもたいしたことではないのです。

 先生もKも、恋することで他者を傷つけ、自分を傷つけました。
 お嬢さんに対してさえ、二人の行動は決して思いやりのあるものではありませんでした。彼らはお嬢さんの気持ちは気にしていても、お嬢さんの幸せを考えていたとは思えません。そしてそのことは、二人がお嬢さんのことを愛していたということとなんら矛盾するものではありません。

 対等の立場でお互いに対して恋愛感情を抱き、相手のことを大切にしあえて、なおかつ誰のことも傷つけない関係などというものが本当に実在するのでしょうか。信じがたいことです。
 恋をするひとは必死です。その思いが切実であればあるほど、相手の、ましてや他者の幸せを考える余裕などなくなるはずだと思うのです。
 とりあえず私は好きになった相手を大事にできたためしがありません。
 専ら片想いだから、という悲しい事実も要因だと思います。
 
 おそらく私は人間に恋をするには不向きな性格なのでしょう。
 できることなら、恋などしないほうがいいのだろうなと思います。

 だけれど何かを好きにならずに生きていくのはつまらないことなので、せめて人間でないものに、芸術とか猫とかそういったものに恋をしながら余生を送れたら、きっと世界は少しだけ平和になると思います。

 しかし恋に落ちる対象を選ぶことができるほど器用な人なら、そもそも恋などしないでしょう。
 先生は恋は罪悪であると知っていました。
 知っていて尚、お嬢さんを愛することをやめられませんでした。
 駄目なひとだなあと思いますが、私にはその駄目さを非難することも嗤うこともできません。

 世界平和への道は遠そうです。
posted by にくす at 17:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月04日

人形になるということの誘惑

井上章一『人形の誘惑』を読んでいたら、興味深い記述に当たりました。
 人形ではなく、生身の若い女がウインドウのなかや店頭で、ポーズをとる。そして、着用した衣服をアピールすることが、以前は、じっさいにあった。一九二〇年代のおわりごろから、めだちだすようになった光景だ。いわゆるマネキン・ガールが出現したのである。
 今は、もう見かけない。たいていのひとは、そういう女たちがいたことさえ、わすれている。
 一九二〇年代後半からの短い期間、ショウウインドウの中で衣服の展示用に人形がわりをつとめる「マネキン・ガール」という職業が存在したというのです。
 彼女たちはぴたりと静止してポーズをとり、しばしば本物の人形と間違えられるほどに人形らしく振舞っていたようです。ウインドウを前にして、あれは人間だいや人形だと口論する人たちが出ることもあったとか。

 こういった職業が登場した背景には、当時のマネキン人形が非常に高価なものであったという事情がありました。購入どころかレンタルもままならぬほど高額な人形を使うよりも、人間を雇った方が安くついたのです。
 一九三〇年代に入って量産化されるようになると価格も下がり、マネキン人形はお店にとって手が出せないものではなくなりました。それにつれてマネキン・ガールという職業も消えていったのです。

 しかしなぜ、彼女たちは人形のように静止する必要があったのでしょう。
 衣服をアピールするだけが目的ならば、人形のように静止するよりもさまざまな姿勢を取って移り変わる服の印象を見せた方が効果的なはずです。人形にはできない動きをみせることが、人間にならば簡単にできるのです。
 にもかかわらず、彼女たちは人形を装うことをこそ求められつづけました。
 マネキン・ガールは、アメリカのファッション・モデルをまねた職種であった。だが、日本へ導入されたモデルたちは、本家のそれとちがい、人形めいた仕事をする。モデルのウォーキングではなく、じっとしていることが、もとめられていたのである。
 そのいっぽうで、一九三〇年代には、マネキン人形が、ひろく普及しはじめた。おかげで、マネキン・ガールたちは、静止ポーズの仕事を、人形にうばわれる。言葉をかえれば、人形的な役割から、解放されるようになったのだ。
 にもかかわらずと、あえて言う。彼女たちは、うごくモデルへの途をあゆまない。人形から脱却して、ファッション・モデル風のウォーキングをとりいれたりは、しなかった。モデルになることじたいを断念して、宣伝販売員へとかわっていったのである。
 それだけ、アメリカ流のファッション・モデルは、日本文化になじめなかったのだ。じっさい、ファッション・モデルが日本へ定着したのは、二〇世紀の後半からである。アメリカによる日本占領で、圧倒的な影響をこうむったあとに、やっと成立した。それまで、モデルの役割は、人形のマネキンがひきうけていたのである。
 筆者は日本に「うごくモデル」が定着しなかった理由として、「日本人の人形にたいする偏愛ぶり」を読み取っています。
 が、私は単純にデザイン市場や流通形態の異なりからその当時の日本にはファッション・モデルが必要とされる場がなかったということと、うごくモデルには購入者が感情移入し難かったということが理由なのではないかと思っています。
 例えば見目好い衣服を着たマネキンを店頭で見かけたとして、その購入を考えたときまず考えるのは「自分がこの服を着たらどのように見えるか」ということだと思うのです。
 衣服自体は可愛らしいけれど、自分が着たら派手に見えるのではないか。もう少し襟ぐりが広い方が、顔周りがすっきりと見えるのではないか。など。
 そういうときは大概、マネキンに自分の身体を重ねて考えているのです。

 これが「いきいきとウォーキングをこなす個性豊かなモデル」だと、それに自分を同一化して衣類の購入を考えるのは困難です。
 個性のないマネキン相手だからこそ、そこに自分の身体を重ねることも可能になってくるのです。

 だからこそ、マネキン・ガールたちは個性を消して静止して、人形になりきることを求められたのではないかと思います。
 誰の顔を映すことも可能なように。誰にでもなれるように。
 誰でもないものになりきることを、求められたのではないかと思います。

 そして、そういう存在はとても魅力的です。
 学生時代、先輩方が見世物小屋を開いたことがありまして。
 その中に「生き人形」という趣向がありました。要は着飾った先輩が静止しているだけなのですが、元々人形めいた美貌の持ち主が更にぴくりとも動かず、ただそこにいるというのはそれだけで異様な迫力のある状況でした。
 普段から見慣れた相手のはずなのに、それを前にして魅入られたようになってしまったのを覚えています。あそこにいたのは先輩ではない「何か」でした。
 どこかこわくて、だけれど人を魅了して止まない「何か」でした。

 当時のマネキン・ガールの談話にも次のようなものがあります。
 地方へ呼ばれますと……旗を立てた人力車に乗せられて、芝居の顔見せの様に町を二三回ねり歩くのです。衣裳を見せるのではなくて店の広告にされるのです……マネキンを見る為に集って来て活動常設館はがら空きだったそうです……飾窓(ショウウインドウ)などへ出て居ますと人の山がうねって、眼が一様にきびしく眺めて、今にも硝子を押しやぶりそうで恐ろしいこともあります
(園輝逸「マネキンと語る」『婦人サロン』一九二九年一〇月号)(前掲書による引用)
 花魁との類似なども気になるところではありますが、それはここでは措くとして。
 地方に呼ばれたのが人間ではない、本物の人形であったなら、それはこれほどに人を集める対象になりえただろうかと思うのです。
 生きた人間だから、そして只の人間ではない生きた人形だからこそ、人々は熱狂したのではないかと思うのです。

 ところで、澁澤龍彦の『少女コレクション序説』は以下のような文章で結ばれています。
 まさにフロイトがホフマンの『砂男』の卓抜な分析によって証明したように、人形を愛するものと人形とは同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。(太字部分、原著では傍点)
 人形愛の究極は「人形との同一化」であり、「人形になりきること」なのだとしたら。
 それを実現してしまったマネキン・ガールたちは途方もなく幸福な人々だったのでしょうか。
 それとも、ただ生計を立てるために過酷な労働に従事した不幸な人々だったのでしょうか。

 話を聞こうにも今は二〇〇五年、当時のマネキン・ガールたちに会うのは絶望的に難しいことのように思えます。
 人形ならぬ身である以上、時間からは逃れられぬが理です。
posted by にくす at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月29日

あの頃のことば

 高校の頃、新聞の連載でお気に入りのものがありました。
 古典の名文句を紹介するというような内容のものでしたが、当時の私には大変親しい感じが持てることば、読んでいてすとん、と胸に落ちてくることばで書かれており、読んだ後きちんと栄養になるものを食べたような満足感がある、そういう連載だったのです。

 そういう前置きを踏まえて。
 昨日、鷲田清一『ことばの顔』を読んでみたところ、その連載が収録されていました。
 古い友人に思わぬところで出くわしたような驚きを噛み締めつつ読み進め、その文章の殆どを覚えていることに再度驚きました。著者名さえすっかり忘れていたというのに。新聞で一度読んで、その後切り抜くこともなく捨ててしまった連載だったというのに。
 それだけ私の中に浸透していたことばたちだったのです。

 そういう、当時自分によく馴染んだ文章を読み返すというのは、当時の自分にまんま向き合う作業によく似ていて、甚だ面映い気持ちにもなりました。
 あの頃、確かに私はここにいたのです。
 確かにこれと同じ文章を読んでいたのです。
 だけれど、それで引き起こされる感想は今とは少し異なるものであったように思えます。それはもはや私が当時のままの感性を持ち合わせていないことのあらわれなのでしょう。
 もうここにはいない私。
 それと向き合うのは、そのまま「今ここにしかいない私」の顔を覗き込む作業でもあるわけで。

 疾うに忘れかけていた人と、思いがけない再会ができました。
posted by にくす at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

主は我らの造られし状を知り

 『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン=ブラウン)を読みました。
 ちょっと前山本弘の『神は沈黙せず』を読んだときに、久々に聖書関連で面白い本に当たったなあと思ったのですが、程なく再度良作に巡りあえて大変嬉しいです。あるいは神の思し召しでしょうか。
 (『神は沈黙せず』はSF。ヨブ記の解釈が新鮮でした)

 キリスト教は既存の信仰をどのように取り込んで形成されていったかとか、色々な紋章、記号は何を表して描かれたものなのかとか、かねがね気になっていたことに関する面白い話が至るところに散りばめられていて、読んでいて大変楽しめました。
 本筋ではありませんが、性的な振舞いと聖なるものの関わりに触れたくだりも興味深かったです。
 神と交わるために性的な儀式を用いるのは世界各地にみられる信仰のありかたです。が、私は浅学にしてキリスト教において性的なことは罪深いこととして禁じられるばかりのものに過ぎないと思っていたのです。(聖書における処女降誕、モーセの十戒「姦淫してはならない」などの記述から)それはなんだかおかしいなあ、とも。繁殖に不可欠な工程を罪としながら一方で「産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と祝福する神というのはなんだかいびつな気がするのです。人の生活のうちから生まれ出る信仰がそんな形になるのかしら、と。
 が、全ての時代、全ての宗派においてそうであったわけではないらしいと知り、なにやら腑に落ちました。

 神の教えにさえ由来があります。
 ものごとのなりたちを調べるのはとても面白いことです。
 それこそが学問の楽しみなのだと思います。あるいは信仰の。

 神を作るのは人です。だからこそ神は人を愛し、祝福します。
 そういう存在を作り出さずにはいられなかった人の心が、私は好きです。

 キャラクターも魅力的でした。特に狂信者、シラスがお気に入りです。
 狂信者には「一途な片思いさん」という趣があって心惹かれます。実質似たようなものだと思います。

 読むうちに西欧の宗教、文化、歴史についてもっと知りたくなり、大変困っています。日本のそれらを調べるだけでも手一杯だというのに。
 他にも学びたいこと、知らないことは沢山あるのに、それらはあまりに多く人生はあまりに短く私はあまりにのんびりやさんです。
 主は我らの造られし状を知り、我らの塵なることを思いたまえばなり。人のよわいは草のごとく、その栄えは野の花のごとし。
 きっと自分には決して知ることのできないことというのが世には溢れていて、そして、それが何なのかを知ることもできないままに人生は終えられてしまうのでしょう。それは到底承服しかねることのように思えます。ファウスト博士の気持ちも今ならわかります。

 だけれど私の所にメフィストフェレスの来訪予定はありませんので、せめてもう少し勤勉であろうと思うのです。
posted by にくす at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月30日

猫カレーの顛末

 以前、森見登美彦の『四畳半神話体系』に出てくる猫ラーメンというのは実在するのか否かを調べていたら「猫カレー」なる不穏な食べ物の情報を得てしまったお話をしました。

 あの後、同じ面子で話す機会がありまして。
「この前、『猫ラーメン』なんていう話をしたね」
「そんなことあったね。あのときちらっと聞いた『猫カレー』という単語が気になってしかたないのですよ」
「ほお、『猫カレー』とはまたマニアックなものを」

 声のした方を振り向くと、友人がにこにこしながら話してくれました。
 好奇心には勝てず、ついつい耳を傾けます。

「あのね、あるカレー屋さんに行って『猫カレーください』って注文するの」
「うん」
「そうするとね、お皿に載った猫が出てくるの」
「へえ」
 その可愛らしい光景を思い浮かべて微笑ましい気持ちになっている私を目の前に、友人は実に楽しそうに話を続けます。
「で、その猫のおなかをぱかっと開けると中からカレーが」

 聞くんじゃなかった。

 好奇心は猫を殺します。
posted by にくす at 20:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月30日

猫ラーメンの虚実

 森見登美彦『四畳半神話体系』を読みました。

 帯によると「トンチキな大学生の妄想が京都の街を駆け巡る」お話です。
 作者が現在京都大学農学部大学院修士課程に在籍しているせいか、実に見事にトンチキな大学生の生活を描き出しています。というか、実際に百万遍辺りにこういうトンチキな大学生達は生息している気がします。

 大変面白かったのですが、今回話題にしたいのはこの物語の素晴らしさではなく、作中に出てくる「猫ラーメン」なるものの存在。
猫ラーメンは、猫から出汁を取っているという噂の屋台ラーメンであり、真偽はともかくとして、その味は無類である。
 この物語によれば、そんな屋台が下鴨神社界隈に出没するというのです。

 無論このお話は創作ですので、猫ラーメンというのも作者の創作である可能性が非常に高い訳ですが、しかしこの本に出てくる京都の地理は大変にリアルなのです。
 春から初夏にかけて新入生の歓迎コンパ会場として広く利用される「鴨川デルタ」とか。
 三条大橋のそばにある「古めかしい束子屋」とか。錦市場の西の果て近くにある「うっそうと暗い雑貨屋」とか。立ち寄った覚えのある場所が、至るところに登場するのです。
 さらに「出町ふたばの豆大福」などは私の大好物であったりします。
 そんなお店に混じって紹介される「猫ラーメン」。果たしてこれは実在する屋台なのでしょうか。実在するとすればそれは一体どんなお店なのでしょうか。

 真偽を明らかにすべく、友人の元京大生と現役京大生に借問。
「『猫ラーメン』の噂を聞いたことはない?」
「ネコラーメン?聞いたことないなあ」
「うーん、私も外食で屋台とか使わないし」
「京大の周りには猫が多いから、そういう話を作ったのかなあ」
「猫……猫ねえ。『ネコミミラーメン』とかあったら面白いのにな」
「それはあれか。お湯を注いで三分待つと丼の中に猫耳美少女が出現なのか」
「食べにくいよ」

 有力な情報は得られず、会話はどんどん脱線していきます。
 京都大学に4年乃至それ以上在籍している人間3名に聞いてみてそれらしき情報の片鱗も得られないということは、やはり「猫ラーメン」というのは架空の存在だと考えるのが妥当でしょう。
 大体がして、猫から出汁を取っているラーメンなどという恐ろしいものがこの世に存在してよいはずがないのです。興味がなかったといえば嘘になりますが京都の猫の平和のために、猫ラーメンというのはあくまで空想世界の不思議な食べ物であるべきなのです。

 などと納得しつつ盛り上がる面々を眺めておりますと、その中の一人がぽつり。

「あ、そういえば猫ラーメンじゃないけど猫カレーなら」
 後半は聞き取れませんでしたが、なんだかそんなような一言でした。

 猫カレー?

 それはつまりあの可愛らしい猫さんの



 聞かなかったことにしました。

 猫カレーなるものがいったい如何なる存在であるのか気にならなかったといえば嘘になりますが、なんだか聞いたら悲しい気持ちになるお話のような気がしたのです。
 真実を追い求めるには、私は少し臆病すぎたのかもしれません。

 出町ふたばの豆大福は本当に美味しいです。
 とりあえず私はそれを知っているので、猫カレーを食べられなくてもなんら困りはしません。
 そういうことにしておきます。
posted by にくす at 02:18| Comment(3) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月19日

後輩のアルバイト

 大学で、後輩主催の飲み会に参加しました。
 専属の料理人付きで、目の前で寿司を握っていただいたりふかひれスープがついていたりと学生の飲み会にしては異様に豪華な飲み会であったとか、教授がギターを演奏していたのが抜群に巧かったとか、憧れの先輩と再会を果たしたとか、まあいろいろなことがありました。

 で、まあなんとなく後輩と親睦を深めたりしておりますと、ある子が凄いアルバイトをしているのだという話になりました。
「どんなバイトです?」
「えっと、イラストレーターを」
「イラスト……カットとか、そういう?」
「はい。ライトノベル……ってわかりますかね。出版社さんからお仕事を戴いて、低年齢向けの文庫本の挿絵なんかを描いています。あと漫画も少し」
「それは凄い!どなたの挿絵ですか?」
「****さんの、****シリーズ(その筋では結構有名なシリーズ)を」
「うわあ、あんな繊細な絵を!?」
「いやいやそんな」

 よもや美術学部でもない後輩にそんな凄い子がいるとは思ってもいなかったので、思わずあれこれと業界の内部事情などを伺ってしまいました。
「イラストは印税じゃなくて買い切り制なので、そんなに儲かる物ではないんですよー。お金儲けのために描いてるって感じじゃないですね」
「へえ」
「特に最近は出版事情が厳しいので、まあ挿絵よりは多いんですけど、出版社によっては作家さんの原稿料も相当安いみたいです。**は特に安いとか」
「大変なんですね。ライトノベルは『スレイヤーズ!』の時期が一番売れていたとか聞いてますけど」
「あ、そういえばこの間神坂一さんと飲みましたよ」
「ええー!」
「なんか友野(詳)さんに連れられて来てました。ぽややん系の普通の人でしたよ」
「友野さんって、あの友野さん?なんですかその豪華な面子は!」

 この業界はあちこち交流があるものなのか、他にも凄い人にたくさん会われているようで。
「その文庫だと、**さんの『***』は読みました。あの人巧いですよね」
「あ、**さんとはお友達ですー」
「なんと!」
「イラストの**さんとも。この間会ってお話しましたよ」
 とか。
「そういえば、イラストを描くときって原稿は読んでから描くんですか?」
「ええ。私の場合は仮刷りを戴いて、それを参考に絵を入れていきます。でも完成原稿ではないので、本になるまでに原稿に直しが入っちゃうことも多くて」
「はー。『悪魔のミカタ』でイラストと本文が随分違ったりするのはなんでかな、と思っていたんですが」
「あ、じゃあ今度藤田香さんに聞いておきましょうか?
「あ、いいです!なんかそれは本人の前で触れてはいけない話のような気がします!」
 とか、一読者としては感心するより他無い話をあれこれ聞くことができました。

 ちなみにこの子、イラストレーターと学生を両立してこなしているので、同級生によると
「なんか授業中に、普通の紙に普通のペンで絵を描いてるんですよ。で、ああ落書きかなあと思って見てて、そのあと書店で本を見たら同じ絵が本に載ってたりするんですよ」
「いや、学校の机って集中できるし、下描きに向いてるんで」
「でもあれはびっくりしたよー。『あ、あたしこれ見たことある!』って」

 本の挿絵を目にされる時は、作成時のそんな背景なども思い浮かべたりすると益々趣深いのではないでしょうか。

 ちなみにその子の絵は、端正な線と繊細な色を使う、とても魅力的なものでした。
 こんな凄い子が近くにいるなんて、世界は狭いものだなあと思います。
 他に後輩にも先輩にも、いろんな意味で凄い子がたくさんおられました。私も見習いたいものよなあと思います。

 得意分野があるというのは素晴らしいことです。
posted by にくす at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月16日

オタクの婿

 同僚から安野モヨコの『監督不行届』を借りて、読みました。

 オタクの婿がいる生活は楽しそうだなあ、と思いました。
 少しだけ自分も婿を取りたくなりました。それもとびきりオタクな。無駄に博覧強記を誇る感じの人材を。

 「生きていく上ではなんら役に立たない能力」というのが好きなのです。『髪結いの亭主』を観たときも、「こんな亭主いいなあ」と身悶えしました。仕事はせず奥さんの収入で暮らし、買い物に行ったり手紙を出しに行ったりといった雑務はこなしてくれて、得意な事は素敵な音楽を選ぶこと、踊ること、変なカクテルを作ること。そんな素敵な亭主。

 ああ、オタクな婿が欲しい。
 漢文の読み下しが得意とか、江戸戯作を語らせたら右に出るものはいないとか、飴菓子を作るのがやたら巧いとか、そういう婿が。
 たとえばラテン語が堪能で毎晩聖書を原語で解釈してくれたりする婿を取ったら、どんなに素敵な生活が送れるでしょう。
 とにかく何かを物凄く探求している人は大変魅力的だと思うのです。
 そしてそれは「あまり生活の役に立たない」ことであればなお良いと思うのです。

 無駄、というのはとても大事なことだと思うのです。
 無駄というのは贅沢なことで、贅沢というのはつまり豊かさの本質ですから。
posted by にくす at 19:02| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月19日

ライトノベルの速度

 以前『悪魔のミカタ』を読んだとき、文章では「黒髪」とされている人物が金髪に描かれているなど、挿絵と文章のあいだに齟齬が多く見受けられたことからもしかしたら挿絵画家と筆者の間での意思疎通が巧くいっていないのじゃないかしらと危惧していたのですが。
 同じ電撃文庫から出ている『とある魔術の禁書目録2』(鎌池和馬)のあとがきを読んで、そんな状況にもなんとなく合点がいきました。ちょっと抜粋。
 担当の三木さんは一七日で小説一本書いてねと注文してくるすごい人です。

 一七日で小説一本。
 挿絵の方も同様に短期間での量産を強いられているとしたら、多少変な部分が出てきても無理はないというもの。
イラストの灰村さんとは実は一度もお顔を拝見したことがありません。見えないパートナー、というのはかっちょイイ響きだと思いますが、やはり直に会ってお礼を言いたいですね。

 という記述もありましたし、現場の意思疎通も何もあったものではないのかもしれません。
 ……というか吉田直の早逝とか浅井ラボの5作目が凄まじく壊れていた事とかそんな悲しい思い出も色々頭を巡り、この業界は非常に恐ろしい所なんじゃないかと恐怖に怯えてもみましたり。

 短期間での量産といえば、ティーンズハートで一世を風靡した花井愛子は多い時期月に3冊文庫を出していました。粗製濫造と受け取られるのを危惧してか、一時は神戸あやか、浦根絵夢という別のペンネームも使っていたのを覚えています。
 この作家の文体は独特で、改行が多く、文庫の下半分を切り取ればそのままメモ帳として使えるような印象の版面でした。詳しくはここの説明がとてもわかりやすいです。
朝帰り。
平日にやると、学校行くのが、キツイ。
でも、あたし、がんばって遅刻しないように心がけてる。欠席も、早退も、めったなことじゃ、やらない。とくに、遊んで疲れて学校サボるのだけは、死んでもやんないぞ、くらいの気持ちで、いる。これって、決してマジメなコーコーセーとは言えない、あたしの、ささやかな良心。
だけど、さ。
(花井愛子『山田ババアに花束を』より)

 ぶつ切りの文(時には単語)と長めの文を織り交ぜて、音楽のように流れる文章。
 久々に読んでふと西尾維新の文体を思い出しました。文の切り方に似たような緩急が見られるように思えたのです。
手を伸ばしたその遥か先に存在し、脚を踏み出す気にすらならない距離を置いて、そこにいた彼女達。
そして。
「つまりだな。これは天才ってのは何であり、そして何でないのかって問題なんだよ。無能だったらそれはそっちの方がいいんだ。とんでもなく鈍感だったなら。生きている理由をそもそも考えないほどに、生きている意味をそもそも考えないほどに、生きている価値をそもそも考えないほどに鈍感だったなら、この世は楽園でしかない。
平穏で、平和で、平静で。
些細なことが大事件で、大事件は些細なことで、最高の一生を終えることができるんだろうよ」
それはきっと、その通りなのだろう。
世界は優秀に厳しい。世界は有能に厳しい。
世界は縞麗に厳しい。世界は機敏に厳しい。
世界は劣悪に優しい。世界は無能に優しい。
世界は汚濁に優しい。世界は愚鈍に優しい。
けれどそれは、それはそうと理解してしまえば、そうと知ってしまえば、その時点で既に終わってしまっている、解決も解釈もない種類の問題だ。
始まる前に終っていて、終わる頃には完成してる、そんな種類の物語なのだろうと思う。
(西尾維新『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』より)
 
 西尾維新もこの作品を書いた当時は随分な速筆だったそうで、なんでも一日に200枚を書き上げることさえできたとか。
 なんというか、「そういう書き方」というのもあるのだなあと思います。
 歌を歌うように一気に物語を語り上げる、というか。

 そうやって書かれた物語はやはり音楽を聞くように一気に消費されてしまうので(それが可能なくらい読みやすい文体ですので)いきおい物語の消費速度はどんどん加速していき、書かれるものは軽量化されて。
 それでも読んだ後に胸に何かを残せるような文章になりうるとしたら、それは全く奇跡のような。

 ライトノベルがこの速度で辿り着く場所というのはどこなんだろうな、と思います。
 それは単なる娯楽に特化した文章なのか。
 それともこのまま純文学との境界が薄くなっていき、いずれはそれに代わるような存在となるのか。
 楽しみです。
posted by にくす at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月15日

角田光代の出身

 今年の直木賞は角田光代でした。
 作品を読んだことはないのですが、身近での評価は結構高いので、これを機に読んでみようかと思っています。

 そうそう、彼女はコバルト文庫出身なのですね。(当時の筆名は彩河杏)
 こうしてみると少女文庫出身の作家で、今は全然違うところで活躍している人というのは結構多いのだなあと思います。
 夢枕獏もコバルト文庫出身ですし。『ねこひきのオルオラネ』は大好きな作品でした。
 小野不由美はティーンズハート出身ですね。藤本ひとみは主にコバルト文庫で書いていたのが、いつのまにか書く場所を移していました。
 最近の藤本ひとみの作品を読んでみると、著作リストに少女文庫時代の作品は一切載っておらず、もしかしてあれは「なかったこと」になっているのだろうかとついつい悩んでしまいます。その割に作品の中には今でも少女文庫時代のキャラクターがさりげなく登場していたりして、一体どのように過去を捉えているのか非常に気になるところです。

 筆名を変えて書いている人は他にもいるのではないかと思うのですが、どうなんでしょう。

 しかしこの記事を書くにあたってちょっとティーンズハートとコバルト文庫の出版状況を調べてみたのですが、作家さんの生存率がかなり低いように思いました。
 十年前、五年前に作品を出していて現在も作家として活躍しているのは、実の所ほんの一握りのようです。井上ほのかとか、今頃どうしているのでしょう。この人の作品は好きだったのですが。ネット上でも復活を望むファンをそこそこ見かけたのですが。
 林場直子もなんだか大変なことになってしまっていましたし。(この人も昔ティーンズハートで作品を書いていました)
 毎月数冊のペースで本を出す人気作家だった花井愛子は、自分の印税を節税のために親の名義にしていた所、相続の際にトラブルがあったとかで自分の手元にお金が残らず自己破産。それをネタにまた本を書いていました。これは生き残り組に入るのでしょうか、微妙な気持ちです。
 少女文庫でこそありませんが、角川スニーカー文庫で本を出していた中村うさぎも、その印税で買い物依存症に陥り、そのあとホストにはまり、そのあと整形だったかなんだかとにかく色々なものにはまったようです。で、それをネタにまた本を書いて、作家としては生き残っていますがそれは果たして成功なのかどうかもうよくわかりません。
 その他大勢の「当時は活躍して何冊か本も出したけれど、その後とんと消息がわからない」類の人とどっちが幸せなのでしょうか。その中には高校生作家とかも結構いたはずなのですが、あの人たちは今頃何をしているのでしょうか。
 なんだかこの辺を調べていると「子役で成功したけれどそのあとがぱっとしない役者の末路」を見るような気持ちになりました。
 作家さんは大変ですね。

 今回、21歳の白岩玄が惜しくも芥川賞を逃しましたが、もしかしたら逃して正解なのかもしれません。
 若くして成功するとあとが大変です。
 審査員の方も「まだ、いいんじゃないでしょうか。これからの作品に期待します」みたいなコメントを寄せてらっしゃいましたし。テレビで見たのでうろ覚えですが。

 阿部和重は「シンセミア」以降化けましたね……妥当な受賞のように感じられました。
 この人を見ていると、書き続けることは大事なんだな、と思います。

 しかし今回の受賞者は二人とも新進作家とはいいがたい気がします。文学賞も色々と変化しつつあるのかもしれません。
posted by にくす at 01:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月05日

金原ひとみの書く痛み

 新年早々、以前書いた佐藤友哉の記事にトラックバックを付けて戴きました。
 嬉しいので久々に本のお話を。「現実味の薄い身体」繋がりで。

 金原ひとみの『アッシュベイビー』を読みました。

 金原ひとみといえば、綿矢りさと同時に芥川賞を取って話題になった作家。受賞の際に綿矢りさについては「作品の質より、『若くて可愛い女の子が受賞』という話題性を考慮しての選考だろう」とか「顔の可愛さという商品性で賞を取ってしまった」とか、そういう辛口のコメントもあちこちに見受けられ。
 そういうものを読んで、ひどいことを言われているなあかわいそうだなあと思ったのですが、しかしよく考えてみたら同時に受賞した金原ひとみには誰も「顔がかわいいから受賞した」なんて言っておらず。それって、つまりまあそのそういうことですよね。
 一体本当にかわいそうなのはどっちなのだろうと考え込んでしまいました。

 とまあそのくらいの印象しかない作家だったのですが、表紙のハンス=ベルメールに目を惹かれ『アッシュベイビー』を読んでみたのです。

 身体が随分おざなりに書かれている、という印象を受けました。
 いやらしい場面、怪我をする場面、はたまた小さい生き物に暴力を揮う場面等過激な表現が多く出てくるのですが、どうにも現実味がないのです。
 いやらしいことをしても身体はこんな風にならないし、こういう怪我をした人間の反応はこうじゃない。
 なんというか、漫画に出てくる身体を文章で読んでいるような気分になりました。殴られても刺されても気合次第で大丈夫。

 にもかかわらず、読んでいて胸に迫る痛々しさを感じました。
 それは身体的な痛みではなくて、主人公がある人を好きになって、好きで好きでもうどうしようもなくて相手と会話しながら脈絡もなく「好きです」「好きです」「好きなんです」と言い倒してしまう場面などにある訳のわからない切羽詰まった感じ。
 ひとのことを好きになって、それ以外はどうでもいいことになってしまって、これだけ好きになってしまったんだからあとはもう相手に殺してもらうしかなくて、でもそんなこと言い出せないしねさあ困ったなどうしよう。
どうせ私は弱い人間だよ。好きで好きで仕方なかったから好きですって言うしかない単純明快な人間だよ。今すぐにも泣き出して殺してくださいと土下座したいくらい弱いよ。でもしないよ。だって引かれるのが嫌だから。だってあなたはきっと私を殺したいと思っていないから。ああ、もしかしたら好きですと言うのを止めたら、私は殺してくださいと口走ってしまうんじゃないだろうか。
(中略)
私が殺してくださいとまともに言える日は来るのだろうか。拒否されるのをわかってて言うには、度胸がいる。私に、そんな度胸はない。でも、愛してください、と言うよりはずっと楽だと思った。まあ愛してくださいと言ったところで絶対に愛してくれないだろうけど。それでも私にとって殺してくださいというのは愛してくださいというのと同義語のようなものだから、とても恥ずかしいのだろう。

 こういう文章を読んで「ああ、そういうことってあるかもねえ」と思ってしまうのは私が弱い側の人間だからなのでしょうか。
 文章があまり端正でないのも、拙いなりに吐き出さずにはいられない感情の描写、という感じで効果的に作用しているように思います。
 
 ここに書かれた身体的な痛みには現実味がないのに、痛々しい感情は妙に生々しく感じられ、そのいびつさに戸惑います。
 この現実感のなさと生々しさの乖離はなんなのでしょう。

 もしかしたら、もはや身体というのはどうでもいいものなのかもしれません。
 その代わりになるものが一体なんなのかはよくわかりませんが。
posted by にくす at 00:57| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月16日

佐藤友哉の子供たち怒る怒る怒る

 新潮1月号に佐藤友哉の新作が掲載されていたので、読みました。

 この人の作品は毎度妙に心に引っかかるものがあるのです。
 思い返せばデビュー作の『フリッカー式』。ミステリと思いながら読み進めていた私は、謎解きの段でやり場のない怒りを持て余したものです。そんな展開ありか、と。
 だけれどその後も『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』と読み進め、あれあれもしかして私はこの人の作品がかなり好きなんじゃないだろうか、と思った辺りで『クリスマス・テロル』。普通にへこみました。

 幸いなのか何なのか、その後も作品発表は続いて少し安心したのですが。

 しかし何故にこの人の作品はこんなにも「引っかかる」のかなあ、と思います。
 読んでいて物凄い爽快感があるわけでなく、むしろなんだか気持ち悪い感じが残ることもしばしばなのですが。それでも毎度作品を読んでは、それなりに心動かされている自分がいます。
 どれだけ「そんなのありか」と言いたくなるような無茶な展開があっても、身体を描写する言葉に現実味がなくても、妹萌えでも予知能力がありの世界でも、どこかでその荒唐無稽さに妙な現実味を感じてしまうのです。
 現実にも結構あれこれ無茶な事件が起こっているせいなのでしょうか。

 新聞の中にはありえないような虐待事件とかよくわからない殺人事件とかものすごい災害とかそんなものが毎日のように見受けられるわけで。
 そういうものを見慣れてしまうと『子供たち怒る怒る怒る』の中に出てくるありえないような事件の数々も充分ありえるものなのかもしれないとふと思ってしまったりする一瞬があったりするわけで。
 例えば牛男のニュースが明日報道されたとしても、多分あんまり驚かないだろうなと思えるわけで。
 そんな風に考えてしまう辺り自分は子供なのかなあと悩んだり諦めたり。
 しかし二十代で自信を持って大人を自認できる人間がどれ位いるのでしょう。

 つまりそれくらい色々考えてしまう程度には、この作品は面白かったのです。なんであれ、人にものを考えさせる作品は力のある作品です。
 村上龍『69』に出てくる子供たちの前向きな駄目さに比べると、この子供たちはどうしてこんな怒り方しか出来なくなってしまったのだろうと時代性の病まで持ち出して考察してしまう始末。
 子供故に感じる鬱屈という点では共通するものがあるはずだと思うのですが。
 一体いつから人の首でも切らないとやっていられないくらいの絶望が子供たちの中にあるなんて荒唐無稽な記述が現実味を帯びるようになってしまったのでしょう。
 読み比べてみると60年代はあまりに遠く、むしろ理由もなく殺しあう『慾望』の子供達の方に親近感を覚えてしまう自分は病んでいるのでしょうか。それともこれが世代間の溝というものなのか。

 今は現実味のある世界なんてどこにもないので、果てしなく嘘っぽい言葉がどんどん強度を増していくように思われます。
posted by にくす at 02:15| Comment(0) | TrackBack(1) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。