2006年09月22日

記憶の記録

 これは私のおはなしではありません。

 三日前に私の前にいた方から聞いた事柄。
「随分といろいろなことを思い出せなくなりました」

「いろいろなところに行ったはずなのですが、そこで何を見て何に触れて何を考えてきたのか。そういうことが、どうにも思い出せなくなりました」
「当時の日記などは残っていないのですか?」
「そういえば、インドに行った時に書いたらしいメモを見つけました。ですがそれを書いた記憶がなく、自分が何を考えてそう書き記すに至ったのかわからないままで」
「そのメモには何と書かれていたのですか?」

「『最近、時が見えるようになってきた気がする』と」

「ニュータイプ気取りですか」
「違います」
「認めたくない若さゆえの過ちですか」
「違うって!確かにちょっとそれっぽいけど!あの頃考えていたのはそういうことではなかったと思います、たぶん」
「ううん。……ではインドで、何を考えてこられたのですか?」

 私の問いに対して記憶を辿りながら言葉を選びながらぽつりぽつりと返してくださった答えは、どうにも抽象的で漠然としたものでした。
 私はそれを完全に理解することができていません。
 従ってここに正確な記述をすることも叶いません。
 それでもあえて乱暴に書き記すなら、生きること、死ぬこと、時間が流れるということ、そういうことに関係したなにかを見て、考えてこられたようでした。
 それはとても重要なことのように思えました。

 だけれど聞き手に過ぎぬ私が他者の経験を正しく理解するのは不可能です。
 加えて語り手の側にもおぼろげな記憶しか残っていません。これは既に失われてしまったおはなしなのです。
 そのメモに書かれているのはとても大事なことであったのかもしれないけれど、それが何であったのかを知る術はもう、ないのです。

 いくつかのことを学びました。
 旅行という経験が、なんらかの思索の鍵を齎すこともあるということ。
 どれだけ大きな経験、思考、感情も、忘却からは逃れえぬということ。
 忘れてしまったものと失われてしまったものの判別は容易ではないということ。

 忘れずにいることはできるでしょうか。
 何かを、誰かを、忘れないために、失わないために。
 忘れるべきでないことなどあるのでしょうか。
 すべてのできごとは、過ぎ去るためにあるというのに。

 それでも忘れることを寂しいと思ってしまうのは何故なのでしょうか。

 これは私のおはなしではありません。
 だけれど私にも、忘れてしまったことはあります。
 今となってはそれが何であったのかもわからないのですが。

 全てを記憶しておくことはできません。
 できるのは書き記すこと、描き止めること、写真を撮ること。
 だけれどどんな形で記録をしても、それでも抜け落ちてしまうものはあって。

 私は、今を記録するためにどれだけの手段を使えるのでしょう。
 どうすれば、大事なことを伝えることができるのでしょう。
 未来の自分に、そしてあなたに。

 感情や思考を完全な形で残しておくのは不可能なことなのですが、それでも、失われるままにしておくのはひどく寂しいことのように思われるので。
 せめて断片だけでも残そうと、不完全なりに言葉を記し、記憶のよすがを増やそうと思うのです。
 それはもしかしたら遠くない未来には「謎のメモ」と化してしまうようなものなのかもしれないのですが。

 それでも祈りのような気持ちで、綴るのです。
posted by にくす at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。