2006年05月08日

忘却の機械

 こんな展覧会に行ってきました。

 スコット=ド・ワシュレー来日展―いつからハゲなんだろう―

スコット=ド・ワシュレー氏は、初の個展となる今回の展覧会を、自分のものとして認識できません。氏は、25歳で交通事故に遭って以来、頭部の外傷がもとで脳に障害を負い、記憶が一日以上持続しなくなったからです

今回の展覧会において「作品」とよばれるものは、氏自らの記憶障害を補完するためにあくまで個人的な営みの一環として生み出された装置にすぎません。自らの記憶を翌日まで留めるため、彼は元エンジニアとしての技術力を生かし多くの装置を開発してきました。つまり、彼の装置はあくまで自身の個人的事情によるものであり、他者に見せることを前提としてはいないものです。また、彼自身の記憶が一日しかもたないことにより、それらの装置は彼のさまざまの努力にも関わらず作り出されるのとほぼ同時に━━次の日には━━忘れられてしまいます。いわば「無用の」機械であり、完成しないまま一日たてば放置される運命にあるそれらの装置は、日毎の記録とともに氏の実姉が保管にあたっています。氏の生み出す装置は、彼に固有の特殊な状況のもとで制作されたものでありながら奇妙なユーモアを湛えており、われわれ誰にとっても自然である「忘却」という現象を改めて思い起こさせる点において興味深いものです。

 という物語を踏まえたうえで、会場にはあれこれと奇妙な機械が並び、ワシュレー氏の制作風景を追ったドキュメンタリー映像が上映されているという展覧会です。

 記憶障害を補うために作られ次の日には忘れられ、意味を為さなくなってしまう装置たち、というのは非常に魅力的な存在でした。
 もし記憶を保持できなくなったら、どういう形で私は自分が自分であることを記録するのでしょう。
 エンジニアでもなく、特殊な機械を作ることもできない私は、どうやって昨日と今日を繋ぎ、明日を生き延びていくのでしょう。

 25年分の記憶はあるのに、そのあとの記憶を一日以上保持できないというワシュレー氏。
 彼の主観は常に25年前の一日後にあり、昨日を思い出せず明日にも進めず、無用の機械を作りながらひたすらに今日を過ごしていく。
 そういうひとの展覧会です。
 そういうことになっています。

 既に会期は終了ということで、野暮とは思えど補足の記述を。
 おそらく「記憶を保持できないエンジニア」というのは架空の物語です。
 この展示はその物語も含めて、ひとつの作品となっています。
 企画者は東京大学の学生チーム、フィボナッチ金魚。

 だけれど私ははじめ、ほんとうにそういうひとがいるのだと思って観覧に行きました。

 で、行って展示を見て、作者に関する説明が妙に少ないことが気にかかったのです。
 どこの国のひとなのかもよくわからず、あらためて説明書きを読み返します。ワシュレーというのはどこの名前なのでしょう。
 スコット=ド・ワシュレー。
 ド・ワシュレー。
 度忘れ。

 ああ、そういうことなのか、と。

 つまりこれはそういう物語で、語呂合わせはそれを示唆する要素なのでしょう。
 そう考えれば、記憶を留めるために作られたにしてはあまりにも回りくどすぎる機械(その日にあった出来事をメモするのではなく、わざわざ特殊なトースターでパンに焼き付けるなんてこと、一体誰がやろうと思うでしょう)ですとか、不自然なまでの略歴の空白ですとか、重要な情報である筈の障害の部位・内容に関する説明が一切ないことですとか、そういう諸々に感じた違和感にも納得がいきます。

 とはいえ確証はありません。

 帰り際受付のひとに聞いてみようかと思ったのですが、こういった企画で
「これはこういう架空の人物を扱った展示なのですか?」
 と確認するのは、いかにも無粋なことのように思われました。
 受付の前でしばし固まったあげく、咄嗟に口を付いた質問は。

「あの、この方はこの会場にも来られるんですか?」

 そう聞くと、ふたりおられた受付の方々はすこし顔を見合わせ思案げな素振りを見せた後、片方の女性からこのような返答が。

「ええと、もう帰国されました」

 ……ううん。
 なにかもっと思わせぶりな返事が返ってくるかと思ったのですが、普通の答えでした。質問のしかたがまずかったかもしれません。
 とはいえ気の利いた問いを思いつくことができなかったので、なんとなくそのまま会場を辞した次第です。

 何が虚構で何がほんとうなのかは、どこにも明記されていませんでした。
 ですので私が見てきたのが一体なんであったのか、それは未だによくわからないままです。

 それで別に問題はありません。
 私はスコット=ド・ワシュレー氏の物語を気に入りました。
 ならばそれ以上に必要な情報など、なにもないように思います。

 帰宅後、医師である父に聞いてみました。
「脳の損傷によって、このような――記憶が一日しか保持できないというような――機能の障害が発生するということはありえますか?」
 返事は以下のようなものでした。
「生物の身体においては、個体差、損傷の度合い、その他あらゆる要素が絡み合い、予想だにしないことが常に起こりうる。だから『医学的にありえない』という現象など、ひとつもない」

 スコット=ド・ワシュレー氏は実在しないかもしれませんが、実在しうる存在のようです。
 そうして、私やあなたがこうした障害を抱える可能性というのも、やはり零ではないようなのです。

 ここまで極端でなくとも、ひとは常に忘却しながら生きています。
 私もなんだか随分と、たくさんのことを忘れてしまいました。

 それらはもしかしたらとても大切なことであったのかもしれないのですが、もはやそれが何であったのか思い出すことができません。
posted by にくす at 17:37| Comment(2) | TrackBack(0) | おでかけ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
最近、記憶を題材にした映画や小説が多いような気がします。

私もど忘れなどと言っていてはいけないような気にさせられました。
Posted by まゆみ at 2006年05月09日 03:02
 最近の映画化作品だけでも、『博士の愛した数式』、『明日の記憶』、「メメント」、「私の頭の中の消しゴム」……まだまだありそうですね。
 記憶とはすこし違いますが、認識や自我の連続性という意味では『アルジャーノンに花束を』もそれでしょうか。題材自体は古典的なもののようにも思えます。
 記憶というのは身近なものだけに、物語にし易いのかもしれませんね。

 自分が何を覚えていて、何を忘れているのか、そのひと自身には認識することができません。
 だからこそ記憶に関する物語は興味深く、またおそろしく感じられるのかなあと思いました。

 忘れる、というのは幸せに生きるための能力でもあるのですけれどね。
Posted by にくす at 2006年05月09日 16:24
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